一級建築士の青瀬稔は、信濃追分へ車を走らせていた。望まれて設計した新築の家。施主の吉野淘汰一家も、新しい自宅を前に、あんなに喜んでいたはずなのに。Y邸は無人だった。あなた自身が住みたい家を建ててくださいと言われ大手出版社の「平成すまい200選」にも選ばれた自慢の家に、そこに越してきたはずの家族の姿はなく、電話機以外に家具もない。ただ一つ、浅間山を望むように置かれたドイツ人建築家ブルーノ・タウト(「桂離宮をほめて日光東照宮をけなしたドイツ人」)の「タウトの椅子」を除けば・・・。このY邸でいったい何が起きたのか?
「差し込むでもなく、降り注ぐでもなく、どこか遠慮がちに部屋を包み込む柔らかな北からの光。東の窓の聡明さとも南の窓の陽気さとも趣の異なる、悟りをひらいたかのように物静かなノースライト。(P29)南向きの人生と北向きの人生。時折思い出したように挿入される少年時代の記憶や元妻との思い出も建築家としての自恃も、すべてが最後に環となってつながる。南からの光では陰になって見えなかったものも、北からの光によって美しく映える。単純な謎解きを超えた警察も探偵も登場しないミステリーは極上の ひとりの建築士の再生の物語でした。
2019年2月新潮社刊