冬の沖縄旅行の第一日目。
ようやく二泊三日のバスツアーの始まりです。
那覇空港に着き、現地旅行会社が案内するバスで那覇市東部へ移動すること数十分...
第一の観光スポットは沖縄を代表する『首里城公園』に到着。
これから楽しい旅の始まりかと思いきや、道中のバス内でアクシデントがあり、一部の乗客のテンションは下がり気味
しかもバスツアーの宿命でしょうか...オプション料金を払っているにも関わらず、駆け足で城内を巡ることになりました。
と言うことで、記憶を辿りながら自分で少し調べてみました
内容も駆け足でいきたいと思います
沖縄では“琉球”と言うコトバをよく聞きますが、ここ『首里城』は14世紀末に創建されたと言われている琉球王国の幾多の興亡を伝える、まさに“歴史の生き証人”でしょう。
城内は中国・日本・朝鮮・東南アジアの国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、王とその家族等が住み、琉球の島々を治め、華麗な王朝文化に彩られた場所でした。
更に、荘厳な城門をいくつも潜ると現れる“正殿”は琉球王国最大の建造物。
その中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高度な文化的・歴史的価値があるとされ、世界文化遺産に登録されています。
駐車場付近の首里杜館から、まず迎えてくれる第一の門は【守礼門】 。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「守礼(しゅれい)」は「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「守■之邦(しゅれいのくに)」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある代表的な門がこの「守礼門」である。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されている。
首里城での多数の城門や建築物には「公式の名称」の他に「別名」が付けられている。それらの呼び名から往時の琉球人の詩的な感覚が読みとれる。守礼門は古くは「首里門(しゅりもん)」ともいわれたが、庶民は愛称として「上の綾門(いいのあやじょう」と呼んだ。「上の方にある美しい門」という意味である。
1527~55年(第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)代)にはじめて建立され、1933年(昭和8)に国宝に指定されたが沖縄戦で破壊された。現在の門は1958年(昭和33)に復元されたもので、その後今日まで沖縄を象徴する観光施設として利用されている。2000年の記念紙幣2,000円の絵柄にもなっている。
※■はネ(しめすへん)に豊
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当時は王族のみが中央を通り抜けることができたそうです
この門を潜ったら、琉球王国時代にタイムトリップ出来たらいいですね。
“門マニア”の方にもお薦めスポットかもしれません(笑)
【歓会門】
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首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。
首里城は外郭(外側城郭)と内郭(内側城郭)により二重に囲まれているが、ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。
創建は1477~1500年頃(尚真王代)で、沖縄戦で焼失したが、1974年(昭和49)に復元された。門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓(やぐら)が載せてある。このスタイルは後述する久慶門(きゅうけいもん)、継世門(けいせいもん)、等と同じである。
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門の両側にはお馴染み「シーサー」という一対の石造の獅子があり、これは魔除けの意味で置かれています。
【冊封七碑】
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「冊封七碑(さっぽうしちひ)」とは、龍樋の周辺に設置されている七つの石碑のことである。中国皇帝の使者として琉球国王の即位を宣言するために遣わされた歴代の「冊封使(さっぽうし)」たちは、龍樋の水の清らかさを讃え、漢詩を詠んだり題字を残した。それらの碑は沖縄戦で破壊され、ほとんど現存しないが、1984年(昭和59年)発掘調査の際に「飛泉(ひせん)」という割れた石碑が発見され、沖縄県立博物館に保存されていた「漱玉(そうぎょく)」という石碑の残り半分であることが判明し当時話題になった。「飛泉漱玉(ひせんそうぎょく)」とは清らかな泉が玉のように飛び散っているという意味である。
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【龍樋】
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「龍樋(りゅうひ)」は、龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。
また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。
龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。
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【漏刻門】
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「漏刻(ろうこく)」とは中国語で「水時計」という意味である。ここは第三の門で、別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいう。
当時、身分の高い役人は駕籠(かご)にのって首里城へ登城したが、高官でも国王に敬意を表し、この場所で駕籠から下りたということからそのように呼ばれている。創建は15世紀頃である。
門の上の櫓(やぐら)に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれている。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナおよび右掖門(うえきもん)で同時に大鐘(おおがね)を打ち鳴らし、城内および城外に時刻を知らせた。
この「漏刻」の制度については、1456年の朝鮮の記録に「(琉球のそれは)我が国のものと何らかわりない」と記されている。
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首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられています。
更にいくつもの広場が配置され、信仰上の聖地も存在しています。
これらは首里城に限られたものではなく、“グスク”と呼ばれる沖縄の城に共通する特徴です。
他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまいましたが、首里城だけはグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたようです。
余談ですが、沖縄の住居の殆んどが木造建築ではなく、コンクリート造でした。
バスの車窓からの眺める限り、沖縄の樹木は木造建築に適した材料が少ないことが見受けられましたので、
離島から木材を調達するコストを勘案すれば、島内の豊富な石材等で賄い、必然的にコンクリート造になったのだと思います。
▲ここから有料ゾーンになります
【広福門】
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「広福(こうふく)」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門(こうふくもん)」は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。
門前は城内でも眺めの良いところで、眼前にハンタン山の緑を映す龍潭(りゅうたん)の池や、沖縄県立芸術大学、沖縄県立博物館が見える。東には弁財天堂(べざいてんどう)の屋根や円覚寺の総門が続き、遠くに虎瀬山(とらずやま)や弁ヶ嶽(べんがだけ)の丘の緑が遠望できる。
創建年は不明である。明治末期頃に撤去され、1992年(平成4)に復元された。
王府時代、この建物には神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていた。現在は、券売所等に利用されている。
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【奉神門】
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「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干(せきぞうらんかん)が完成したという記録があることから創建はそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元された。現在は公園管理のための施設として利用されている。
別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいう。向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式のとき等に使われた。
3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)等限られた身分の高い人だけが通れる門である。それ以外の役人は両側の門から入城した。
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▲御庭でのイベントは開催されていませんでした
ようやく中心エリアの“正殿”に到着しました。
正殿は琉球王国最大の木造建造物。
手前の御庭は年間を通じて様々な儀式が行われていた広場だったようです。
【正殿】
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正殿(せいでん)は言うまでもなく首里城で最も中心的な建物である。
木造の三階建で、一階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場、二階は「大庫理(うふぐい)」と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場であった。三階は通気を目的とした屋根裏部屋である。
創建年は、復元に先立って実施された発掘調査から14世紀末頃とみられている。その後ほぼ同位置で数度の焼失・再建が繰り返されてきた。現在の建物は18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルに1992年(平成4)に復元したものである。
正殿の建築は、中国の宮廷建築と日本の建築様式を基本にしながら琉球独特の意匠(いしょう)にまとめられている。正面の石階段の両脇に龍の彫刻があるが、これを「大龍柱(だいりゅうちゅう)」という。手すりの奥にもう一対「小龍柱(しょうりゅうちゅう)」がある。その他柱や梁(はり)等にも龍の彫刻が多数施されている。龍は国王の象徴であり、たくさんの龍が首里城には棲んでいる。
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▲御差床 1階
【御差床(うさすか)】
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国王が座る玉座。
御差床後の障子戸を開くと、奥に国王専用の階段(おちょくい)があります。国王はその階段を使って2階から御差床に出御します。
御差床左右の柱には龍が描かれ、そのまわりには雲が配色されています。
なお、国王の椅子については、1477年~1526年まで在位した尚真王の御後絵(肖像画)をもとに再現したものです。
2階にも1階と同じ場所に御差床があるのは極めてめずらしいと言われています。特に2階の御差床は絢爛豪華(けんらんごうか)な意匠となっています。
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▲御差床 2階
▲国王の椅子
▲王冠
▲スケール模型
【御庭】
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「御庭(うなー)」は首里城の中心部である。正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、左(北側)が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。
年間を通じて様々な儀式が行われた広場である。御庭には磚(せん)【敷き瓦】というタイル状のものが敷かれているが、この色違いの列は、儀式のさいに諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。
中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者【冊封使(さっぽうし)】等限られた人だけが通ることを許された
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【園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)】
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琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所である。形は門になっているが人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」ともいうべき場所である。
門の上部に掛けられている扁額(へんがく)の内容から1519年(尚真王(しょうしんおう)代)に建てられたことが判明している。八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造したものと伝えられる。
琉球の石造建造物の代表的なものであり、1933年(昭和8)国宝に指定されたが、沖縄戦で一部破壊され、1957年(昭和32)復元された。現在、国指定重要文化財となっている。また2000年(平成12)には世界遺産へ登録された。
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駆け足で見て周りましたが、朱色の建物と城壁のコントラスが斬新で印象的でした。
そして、最後に迎えてくれたのが世界遺産で救われました
もう少し、ここで世界遺産を拝みたかったです...
実はバスへの足取りが重い理由がありました。
首里城公園までの道中、バス後部でジ~という音が鳴り響き、終わった後に一瞬、炎が上がってボヤ騒ぎ...
どうやら換気扇が燃えたようです。
座席が近かったので、今思い出してもゾっとします
マジでやばかった。
その後、バスの交換を二度行い、何事もなくてホントよかったです。
バス会社から御詫びの品として“ちんすこう”が配られました。
納得できませんが、誠意は幾分伝わってきたと思います。
その“ちんすこう”とは、琉球王朝時代から沖縄県で作られている伝統的な御菓子の1つ。
小麦粉・砂糖・ラードを主原料とした焼き菓子で、他の伝統菓子にはない独特なビスケットのような食感と、上品な甘さが人気でお土産の定番です。
三日間、至るところで試食をしましたが、不思議と飽きのこない味わいです。
最近では“塩ちんすこう”がポピュラーですが、一番のオススメは“ハバネロちんすこう”。
食べた後のリアクションが凄まじいのです...
餌食になった職場スタッフの方、ゴメンナサイ(笑)
(つづく)
【過去の記事より →[沖縄に...行ったつもりでソーキそばを味わう!]】
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【ちんすこうの由来】
その由来には諸説あるが、その昔、中国南部で作られていたと言われている小麦粉に砂糖とラードを加えて蒸したカステラのような蒸し菓子が沖縄県の気候や原料に合わせて創作されたという説や、ポルトガルの焼き菓子として知られるボーロがシルクロードや海路を通じて伝わった説などがある。また、菓子例帳には現在と異なり、ちんすこうは赤、黄、緑の着色がされていたとある。スペインに古くから伝わる祝い菓子のひとつポルボロンは、材料や食感の面でちんすこうとの共通点が多い。以前は米の粉(みじん粉)を使用していたとされる材料も、小麦粉へと変化している。
カステラのような中国菓子と同じ蒸し菓子である、新垣菓子店のちいるんこうを焼いたものがちんすこうとなったのではないか。という説が一部で存在しているが、包丁人が習得したとされる中国菓子以降の経緯が定かではない為、否定は出来ないが、その材料(鶏卵、砂糖、小麦粉、桔餅、落花生)と分量を考えると、少し考えづらい。
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ようやく二泊三日のバスツアーの始まりです。
那覇空港に着き、現地旅行会社が案内するバスで那覇市東部へ移動すること数十分...
第一の観光スポットは沖縄を代表する『首里城公園』に到着。
これから楽しい旅の始まりかと思いきや、道中のバス内でアクシデントがあり、一部の乗客のテンションは下がり気味
しかもバスツアーの宿命でしょうか...オプション料金を払っているにも関わらず、駆け足で城内を巡ることになりました。
と言うことで、記憶を辿りながら自分で少し調べてみました
内容も駆け足でいきたいと思います
沖縄では“琉球”と言うコトバをよく聞きますが、ここ『首里城』は14世紀末に創建されたと言われている琉球王国の幾多の興亡を伝える、まさに“歴史の生き証人”でしょう。
城内は中国・日本・朝鮮・東南アジアの国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、王とその家族等が住み、琉球の島々を治め、華麗な王朝文化に彩られた場所でした。
更に、荘厳な城門をいくつも潜ると現れる“正殿”は琉球王国最大の建造物。
その中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高度な文化的・歴史的価値があるとされ、世界文化遺産に登録されています。
駐車場付近の首里杜館から、まず迎えてくれる第一の門は【守礼門】 。
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「守礼(しゅれい)」は「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「守■之邦(しゅれいのくに)」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある代表的な門がこの「守礼門」である。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されている。
首里城での多数の城門や建築物には「公式の名称」の他に「別名」が付けられている。それらの呼び名から往時の琉球人の詩的な感覚が読みとれる。守礼門は古くは「首里門(しゅりもん)」ともいわれたが、庶民は愛称として「上の綾門(いいのあやじょう」と呼んだ。「上の方にある美しい門」という意味である。
1527~55年(第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)代)にはじめて建立され、1933年(昭和8)に国宝に指定されたが沖縄戦で破壊された。現在の門は1958年(昭和33)に復元されたもので、その後今日まで沖縄を象徴する観光施設として利用されている。2000年の記念紙幣2,000円の絵柄にもなっている。
※■はネ(しめすへん)に豊
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当時は王族のみが中央を通り抜けることができたそうです
この門を潜ったら、琉球王国時代にタイムトリップ出来たらいいですね。
“門マニア”の方にもお薦めスポットかもしれません(笑)
【歓会門】
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首里城の城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門で、「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。
首里城は外郭(外側城郭)と内郭(内側城郭)により二重に囲まれているが、ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。
創建は1477~1500年頃(尚真王代)で、沖縄戦で焼失したが、1974年(昭和49)に復元された。門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓(やぐら)が載せてある。このスタイルは後述する久慶門(きゅうけいもん)、継世門(けいせいもん)、等と同じである。
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門の両側にはお馴染み「シーサー」という一対の石造の獅子があり、これは魔除けの意味で置かれています。
【冊封七碑】
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「冊封七碑(さっぽうしちひ)」とは、龍樋の周辺に設置されている七つの石碑のことである。中国皇帝の使者として琉球国王の即位を宣言するために遣わされた歴代の「冊封使(さっぽうし)」たちは、龍樋の水の清らかさを讃え、漢詩を詠んだり題字を残した。それらの碑は沖縄戦で破壊され、ほとんど現存しないが、1984年(昭和59年)発掘調査の際に「飛泉(ひせん)」という割れた石碑が発見され、沖縄県立博物館に保存されていた「漱玉(そうぎょく)」という石碑の残り半分であることが判明し当時話題になった。「飛泉漱玉(ひせんそうぎょく)」とは清らかな泉が玉のように飛び散っているという意味である。
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【龍樋】
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「龍樋(りゅうひ)」は、龍の口から湧水が湧き出していることからそのように名付けられた。この水は王宮の飲料水として使われていた。
また、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水をはこんだといわれている。
龍の彫刻は1523年に中国からもたらされたもので、約500年前のものである。
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【漏刻門】
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「漏刻(ろうこく)」とは中国語で「水時計」という意味である。ここは第三の門で、別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいう。
当時、身分の高い役人は駕籠(かご)にのって首里城へ登城したが、高官でも国王に敬意を表し、この場所で駕籠から下りたということからそのように呼ばれている。創建は15世紀頃である。
門の上の櫓(やぐら)に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれている。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が東(あがり)のアザナと西(いり)のアザナおよび右掖門(うえきもん)で同時に大鐘(おおがね)を打ち鳴らし、城内および城外に時刻を知らせた。
この「漏刻」の制度については、1456年の朝鮮の記録に「(琉球のそれは)我が国のものと何らかわりない」と記されている。
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首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられています。
更にいくつもの広場が配置され、信仰上の聖地も存在しています。
これらは首里城に限られたものではなく、“グスク”と呼ばれる沖縄の城に共通する特徴です。
他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまいましたが、首里城だけはグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたようです。
余談ですが、沖縄の住居の殆んどが木造建築ではなく、コンクリート造でした。
バスの車窓からの眺める限り、沖縄の樹木は木造建築に適した材料が少ないことが見受けられましたので、
離島から木材を調達するコストを勘案すれば、島内の豊富な石材等で賄い、必然的にコンクリート造になったのだと思います。
▲ここから有料ゾーンになります
【広福門】
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「広福(こうふく)」とは、「福を行き渡らせる」という意味である。「広福門(こうふくもん)」は別名「長御門(ながうじょう)」といい、第四の門である。建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴である。
門前は城内でも眺めの良いところで、眼前にハンタン山の緑を映す龍潭(りゅうたん)の池や、沖縄県立芸術大学、沖縄県立博物館が見える。東には弁財天堂(べざいてんどう)の屋根や円覚寺の総門が続き、遠くに虎瀬山(とらずやま)や弁ヶ嶽(べんがだけ)の丘の緑が遠望できる。
創建年は不明である。明治末期頃に撤去され、1992年(平成4)に復元された。
王府時代、この建物には神社仏閣を管理する「寺社座(じしゃざ)」と、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」という役所が置かれていた。現在は、券売所等に利用されている。
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【奉神門】
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「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干(せきぞうらんかん)が完成したという記録があることから創建はそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元された。現在は公園管理のための施設として利用されている。
別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいう。向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式のとき等に使われた。
3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)等限られた身分の高い人だけが通れる門である。それ以外の役人は両側の門から入城した。
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▲御庭でのイベントは開催されていませんでした
ようやく中心エリアの“正殿”に到着しました。
正殿は琉球王国最大の木造建造物。
手前の御庭は年間を通じて様々な儀式が行われていた広場だったようです。
【正殿】
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正殿(せいでん)は言うまでもなく首里城で最も中心的な建物である。
木造の三階建で、一階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場、二階は「大庫理(うふぐい)」と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場であった。三階は通気を目的とした屋根裏部屋である。
創建年は、復元に先立って実施された発掘調査から14世紀末頃とみられている。その後ほぼ同位置で数度の焼失・再建が繰り返されてきた。現在の建物は18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルに1992年(平成4)に復元したものである。
正殿の建築は、中国の宮廷建築と日本の建築様式を基本にしながら琉球独特の意匠(いしょう)にまとめられている。正面の石階段の両脇に龍の彫刻があるが、これを「大龍柱(だいりゅうちゅう)」という。手すりの奥にもう一対「小龍柱(しょうりゅうちゅう)」がある。その他柱や梁(はり)等にも龍の彫刻が多数施されている。龍は国王の象徴であり、たくさんの龍が首里城には棲んでいる。
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▲御差床 1階
【御差床(うさすか)】
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国王が座る玉座。
御差床後の障子戸を開くと、奥に国王専用の階段(おちょくい)があります。国王はその階段を使って2階から御差床に出御します。
御差床左右の柱には龍が描かれ、そのまわりには雲が配色されています。
なお、国王の椅子については、1477年~1526年まで在位した尚真王の御後絵(肖像画)をもとに再現したものです。
2階にも1階と同じ場所に御差床があるのは極めてめずらしいと言われています。特に2階の御差床は絢爛豪華(けんらんごうか)な意匠となっています。
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▲御差床 2階
▲国王の椅子
▲王冠
▲スケール模型
【御庭】
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「御庭(うなー)」は首里城の中心部である。正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、左(北側)が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。
年間を通じて様々な儀式が行われた広場である。御庭には磚(せん)【敷き瓦】というタイル状のものが敷かれているが、この色違いの列は、儀式のさいに諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。
中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者【冊封使(さっぽうし)】等限られた人だけが通ることを許された
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【園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)】
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琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所である。形は門になっているが人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」ともいうべき場所である。
門の上部に掛けられている扁額(へんがく)の内容から1519年(尚真王(しょうしんおう)代)に建てられたことが判明している。八重山の竹富島出身の西塘(にしとう)という役人が築造したものと伝えられる。
琉球の石造建造物の代表的なものであり、1933年(昭和8)国宝に指定されたが、沖縄戦で一部破壊され、1957年(昭和32)復元された。現在、国指定重要文化財となっている。また2000年(平成12)には世界遺産へ登録された。
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駆け足で見て周りましたが、朱色の建物と城壁のコントラスが斬新で印象的でした。
そして、最後に迎えてくれたのが世界遺産で救われました
もう少し、ここで世界遺産を拝みたかったです...
実はバスへの足取りが重い理由がありました。
首里城公園までの道中、バス後部でジ~という音が鳴り響き、終わった後に一瞬、炎が上がってボヤ騒ぎ...
どうやら換気扇が燃えたようです。
座席が近かったので、今思い出してもゾっとします
マジでやばかった。
その後、バスの交換を二度行い、何事もなくてホントよかったです。
バス会社から御詫びの品として“ちんすこう”が配られました。
納得できませんが、誠意は幾分伝わってきたと思います。
その“ちんすこう”とは、琉球王朝時代から沖縄県で作られている伝統的な御菓子の1つ。
小麦粉・砂糖・ラードを主原料とした焼き菓子で、他の伝統菓子にはない独特なビスケットのような食感と、上品な甘さが人気でお土産の定番です。
三日間、至るところで試食をしましたが、不思議と飽きのこない味わいです。
最近では“塩ちんすこう”がポピュラーですが、一番のオススメは“ハバネロちんすこう”。
食べた後のリアクションが凄まじいのです...
餌食になった職場スタッフの方、ゴメンナサイ(笑)
(つづく)
【過去の記事より →[沖縄に...行ったつもりでソーキそばを味わう!]】
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【ちんすこうの由来】
その由来には諸説あるが、その昔、中国南部で作られていたと言われている小麦粉に砂糖とラードを加えて蒸したカステラのような蒸し菓子が沖縄県の気候や原料に合わせて創作されたという説や、ポルトガルの焼き菓子として知られるボーロがシルクロードや海路を通じて伝わった説などがある。また、菓子例帳には現在と異なり、ちんすこうは赤、黄、緑の着色がされていたとある。スペインに古くから伝わる祝い菓子のひとつポルボロンは、材料や食感の面でちんすこうとの共通点が多い。以前は米の粉(みじん粉)を使用していたとされる材料も、小麦粉へと変化している。
カステラのような中国菓子と同じ蒸し菓子である、新垣菓子店のちいるんこうを焼いたものがちんすこうとなったのではないか。という説が一部で存在しているが、包丁人が習得したとされる中国菓子以降の経緯が定かではない為、否定は出来ないが、その材料(鶏卵、砂糖、小麦粉、桔餅、落花生)と分量を考えると、少し考えづらい。
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