ジェイムズ・キャメロンが『タイタニック』から12年の時を経て制作した映画『アバター』──それを観に行ってきた。『アバター』のストーリーはこうだ。
22世紀、人類は地球と同じような生態系と知性を持つ人間型の生物ナヴィがいる惑星パンドラを発見。その惑星調査のための「パンドラ・プロジェクト」を開始する。パンドラの大気の中では生きられない人類は、人類とナヴィのDNAを組み合わせ、意識によって遠隔操作できる分身(アバター)を作り出す技術を確立した。
パンドラでは、ナヴィのある部族の暮らす地域に地球では莫大な富を生むレアメタル鉱床があることが判明。パンドラ駐留部隊は、アバターを使ってナヴィの部族に入り込み、その土地から部族を排除することを画策する。白羽の矢が立てられたのは、ケガで半身不随の身にある元海兵隊員ジェイクだった。
ジェイクは自身のアバターを使って計画通りナヴィの部族の村に入り込み、部族からの信頼を得るまでになるが、部族の長の娘ネイティリと行動をともにする中で恋に落ち、また惑星パンドラを愛するようになる。
ジェイクは何とか平和裏に事態を収拾する道を模索するが、彼の裏切りを知ったパンドラ駐留部隊はジェイクからの進言を無視し、武力によるナヴィ強制排除に踏み切る。かくしてパンドラの未来を賭けた、人類のパンドラ駐留部隊とナヴィによる戦争が始まる──。
『アバター』オフィシャルHP
ありがちなストーリーだが、細部まで精密に作り上げられた惑星パンドラのヴィジュアルが物語に非常な説得力をもたらしている。それにしても、これはSFという衣をかぶせられているが、実は大航海時代以降、ヨーロッパ諸国そしてアメリカが新大陸、そしてアジアで行ってきたことをそのまま描いたもの、というふうにも見える。実際、私は映画を観ながらずっとそう感じていた。
そしてまた、パンドラ駐留部隊の「どんな手段を使っても欲しいものは手に入れる」「必要があれば軍事力を行使することも躊躇しない」というやり方は、(部隊の主力は海兵隊という設定もあり)9/11以降のアメリカを完全にカリカチュアしている。だから、タフでマッチョで勇猛果敢な彼らが、この物語の中ではどうしようもなくグロテスクでおぞましいものに見える(し、そう見えるように作られている)。
だが、クライマックスの戦いの下りは、それだけでない、もっと重層的に読み解けるさまざまな要素を内包しているように、私には思える。それはキャメロンが『アバター』を観た1人ひとりに投げかけた問いのようでもある。
神田昌典さんが翻訳した『3つ原理』(ローレンス・トーブ著、ダイアモンド社刊)では、これからの社会における2つの大きなトレンドは「両性具有化」と「宗教経済」であるという(私は未読だが、対談CDの中で神田さん自身がそう語っていた)。
「両性具有化」は、男性の女性化、そして女性の男性化が進む中で、社会はよりユニセックスの方向に進むということ。男性用ブラジャーが発売と同時に売り切れる、といった現象は、こうした流れを示しているらしい。
そして「宗教経済」は、人々が自分の拠り所を模索する中で宗教あるいは宗教的なものへの回帰が進み、それ自体が巨大な市場価値を持ってくる、ということではないかと思われる。昨今のスピリチュアル・ブームなども、こうしたものの一環としてとらえられるだろう。
(これは以前ブログに書いたことでもあるが)ローマ時代後期以降、世界の覇権は一神教を頂く民が担ってきた。キリスト教成立以前、豊穣をもたらす母なる大地(大地母神)が信仰の中心だった。それがキリスト教がヨーロッパを席巻していく中、こうした「母なる神」は否定、封印され、「天にまします我らが神よ」という言葉に象徴されるように、神とは天にいる「父なる神」へと一元化され、今に至っている。だが今後、そうした一神教的な世界観による世界秩序が大きな変容を迫られるかもしれない。
『アバター』では、惑星パンドラはナヴィも含め、そこに暮らす動植物が大きなネットワークを構成している。言わばナヴィは「母なる大地」と直接結びつく形で存在している。それに対して、科学の粋を結集して作られた宇宙船でパンドラにやってきた人類は、ナヴィから「スカイ・ピープル」と呼ばれている。つまりナヴィと人類との戦いは、大地に根づいた「母なる神」と天空から飛来した「父なる神」との戦いのメタファーでもあるのだ。そうした物語を、カナダに生まれ、後にアメリカに移り住んだキャメロンが描いている、というところに、この『アバター』という映画の隠された意味がある。
もっと言えば、この『アバター』の中には非常に多くの宮崎駿作品の影を見ることができる。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』──そうした宮崎作品の要素が『アバター』の中にはちりばめられている。キャメロンが宮崎作品を観たことがあるのか、またそれらについてどう考えているのか、ということを私は知らない。だが『アバター』を観て、「これはキャメロンから宮崎駿への回答なのではないか」と感じた。そして宮崎作品の根底に流れるものは、紛れもなくアニミズム(多神教)的な世界観である。
この『アバター』における人類とナヴィの戦いの結末については映画を観ていただくことになるが、キャメロンはこの作品を通じてアメリカに代表される支配と覇権=父性原理、あるいは「父なる神」の時代の終わりと、共生=母性原理、あるいは「母なる神」の時代への回帰、あるいは両者の融合という、人間そして宗教(=意識のあり方)が大きな変容に向かうことを「来るべきものの予感」として示している、というふうに私はとらえている。それらが『3つ原理』における2つのトレンド──「両性具有化」と「宗教経済」──と不思議に重なり合って見えるのは単なる偶然だろうか?
22世紀、人類は地球と同じような生態系と知性を持つ人間型の生物ナヴィがいる惑星パンドラを発見。その惑星調査のための「パンドラ・プロジェクト」を開始する。パンドラの大気の中では生きられない人類は、人類とナヴィのDNAを組み合わせ、意識によって遠隔操作できる分身(アバター)を作り出す技術を確立した。
パンドラでは、ナヴィのある部族の暮らす地域に地球では莫大な富を生むレアメタル鉱床があることが判明。パンドラ駐留部隊は、アバターを使ってナヴィの部族に入り込み、その土地から部族を排除することを画策する。白羽の矢が立てられたのは、ケガで半身不随の身にある元海兵隊員ジェイクだった。
ジェイクは自身のアバターを使って計画通りナヴィの部族の村に入り込み、部族からの信頼を得るまでになるが、部族の長の娘ネイティリと行動をともにする中で恋に落ち、また惑星パンドラを愛するようになる。
ジェイクは何とか平和裏に事態を収拾する道を模索するが、彼の裏切りを知ったパンドラ駐留部隊はジェイクからの進言を無視し、武力によるナヴィ強制排除に踏み切る。かくしてパンドラの未来を賭けた、人類のパンドラ駐留部隊とナヴィによる戦争が始まる──。
『アバター』オフィシャルHP
ありがちなストーリーだが、細部まで精密に作り上げられた惑星パンドラのヴィジュアルが物語に非常な説得力をもたらしている。それにしても、これはSFという衣をかぶせられているが、実は大航海時代以降、ヨーロッパ諸国そしてアメリカが新大陸、そしてアジアで行ってきたことをそのまま描いたもの、というふうにも見える。実際、私は映画を観ながらずっとそう感じていた。
そしてまた、パンドラ駐留部隊の「どんな手段を使っても欲しいものは手に入れる」「必要があれば軍事力を行使することも躊躇しない」というやり方は、(部隊の主力は海兵隊という設定もあり)9/11以降のアメリカを完全にカリカチュアしている。だから、タフでマッチョで勇猛果敢な彼らが、この物語の中ではどうしようもなくグロテスクでおぞましいものに見える(し、そう見えるように作られている)。
だが、クライマックスの戦いの下りは、それだけでない、もっと重層的に読み解けるさまざまな要素を内包しているように、私には思える。それはキャメロンが『アバター』を観た1人ひとりに投げかけた問いのようでもある。
神田昌典さんが翻訳した『3つ原理』(ローレンス・トーブ著、ダイアモンド社刊)では、これからの社会における2つの大きなトレンドは「両性具有化」と「宗教経済」であるという(私は未読だが、対談CDの中で神田さん自身がそう語っていた)。
「両性具有化」は、男性の女性化、そして女性の男性化が進む中で、社会はよりユニセックスの方向に進むということ。男性用ブラジャーが発売と同時に売り切れる、といった現象は、こうした流れを示しているらしい。
そして「宗教経済」は、人々が自分の拠り所を模索する中で宗教あるいは宗教的なものへの回帰が進み、それ自体が巨大な市場価値を持ってくる、ということではないかと思われる。昨今のスピリチュアル・ブームなども、こうしたものの一環としてとらえられるだろう。
(これは以前ブログに書いたことでもあるが)ローマ時代後期以降、世界の覇権は一神教を頂く民が担ってきた。キリスト教成立以前、豊穣をもたらす母なる大地(大地母神)が信仰の中心だった。それがキリスト教がヨーロッパを席巻していく中、こうした「母なる神」は否定、封印され、「天にまします我らが神よ」という言葉に象徴されるように、神とは天にいる「父なる神」へと一元化され、今に至っている。だが今後、そうした一神教的な世界観による世界秩序が大きな変容を迫られるかもしれない。
『アバター』では、惑星パンドラはナヴィも含め、そこに暮らす動植物が大きなネットワークを構成している。言わばナヴィは「母なる大地」と直接結びつく形で存在している。それに対して、科学の粋を結集して作られた宇宙船でパンドラにやってきた人類は、ナヴィから「スカイ・ピープル」と呼ばれている。つまりナヴィと人類との戦いは、大地に根づいた「母なる神」と天空から飛来した「父なる神」との戦いのメタファーでもあるのだ。そうした物語を、カナダに生まれ、後にアメリカに移り住んだキャメロンが描いている、というところに、この『アバター』という映画の隠された意味がある。
もっと言えば、この『アバター』の中には非常に多くの宮崎駿作品の影を見ることができる。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』──そうした宮崎作品の要素が『アバター』の中にはちりばめられている。キャメロンが宮崎作品を観たことがあるのか、またそれらについてどう考えているのか、ということを私は知らない。だが『アバター』を観て、「これはキャメロンから宮崎駿への回答なのではないか」と感じた。そして宮崎作品の根底に流れるものは、紛れもなくアニミズム(多神教)的な世界観である。
この『アバター』における人類とナヴィの戦いの結末については映画を観ていただくことになるが、キャメロンはこの作品を通じてアメリカに代表される支配と覇権=父性原理、あるいは「父なる神」の時代の終わりと、共生=母性原理、あるいは「母なる神」の時代への回帰、あるいは両者の融合という、人間そして宗教(=意識のあり方)が大きな変容に向かうことを「来るべきものの予感」として示している、というふうに私はとらえている。それらが『3つ原理』における2つのトレンド──「両性具有化」と「宗教経済」──と不思議に重なり合って見えるのは単なる偶然だろうか?
も太りましたね。
タイタニックを予告編では、遭難事故から無理やり創作したのだから、どこか
に齟齬が生じて面白くなさそうに思えたのですが、なかなかに面白い筋立てでした。
こんかいも似たような危うさを覚えたものの、再び裏切られ、よかったと思いました。
コメントくださり、ありがとうございます。
キャメロン監督は深いテーマをエンターテインメントとして見せることに極めて長けていると思います。その分、テーマの掘り下げ方が中途半端、といった批判もあるようですが、彼は多分、自分をアーティストではなくエンタメ職人のようなポジショニングで考えているのでしょうね。