第2部までで量子論の基本的な部分を見てきた。この第3部では、これまでの準備の下に量子意識論そしてコペンハーゲン解釈について、チャールズ・サイフェの『宇宙を復号(デコード)する』の中に見ていこうと思う。まずは量子意識論から。
もちろん、この部分についてもさまざまな仮説が提唱されている。例えば、ニューロンは脳内のむしろ「低速な」情報ネットワークにすぎない、という説がある。上記の引用では微小管による量子的な情報のやりとりについて否定的な見解を述べているが、ゼロ・ポイント・フィールドといった考え方の中では、ニューロンを遙かに超える超高速情報ネットワークの存在が提唱されている。仮にそのネットワークによる情報伝達速度が、粒子の重ね合わせが消失するスピードを超えるなら、私たちの体は量子情報コンピューティングを行っていることになる。
もしそうだとすると、脳がそうした超高速ネットワークと「低速な」ニューロン・ネットワークの両方を持っている理由は、量子的な情報処理系と古典的な情報処理系の両方をせめぎ合わせるためかもしれない。その2つの系のせめぎ合いこそ、無意識を含む広い意味の「意識」と呼ばれるものの正体ではないのか──ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
ただ、そうした考え方は現時点では何ら実証されてはいない。つまり、量子論的には何の根拠もない、ただの仮説にすぎない。
では次にコペンハーゲン解釈を巡る問題について見ていくが、その前に一言。「自然科学とは、揺るぎない真理を探究する学問だ」などという勘違いをしてはいないだろうか。「揺るぎない真理」などというものは、たとえあったとしても神ならぬ人間にはわかるはずもないこと。自然科学というのは「さまざまな現象を矛盾なく説明できる解釈を作る学問」なのである。ちなみに、第1部の冒頭に述べた「世界はそれを見る者の意識のあり方によって変化する」という考え方は、このコペンハーゲン解釈の中の一部として述べられたものだ。
──本当はこの第3部を書き上げるのは、もう少し先のはずだったのだが、連絡もなく治療の予約をすっぽかされたのに頭に来て、怒りにまかせて予定を前倒しして書いてしまった…。
要は、デコヒーレンスがネコを殺すのである。そしてデコヒーレンスのせいで、微視的な対象が量子的な振舞いをする一方、巨視的な対象が古典的な仕方で振舞うのだ──私たちの脳を含めて。こうした量子意識論は、イギリスの数学者で量子論の理論家でもあるロジャー・ペンローズなどによって提唱された。だが、
脳は情報処理装置であり、情報の法則に支配される。古典的な情報理論にしたがえば、私たちは極端に複雑な情報処理装置にすぎないように思われる。そうすると、テューリングマシンやコンピューターと根本的に違うものではないことになる。明らかにこれは、穏当とは言いがたい結論だが、私たちの頭の中にある情報が古典的な情報ではなく量子情報なら、私たちの心の実態は、まったく新たな様相を帯びることになる。
研究者の中には、量子の重ね合わせとその収縮という現象を、私たちの頭の中で起こっていることに際立ってて似ていると見る人もいる。量子世界ではシュレディンガーの猫は初めは生きても死んでもいないが、やがて何らかの作用──測定かデコヒーレンス──で情報が環境に漏れ、重ね合わせが収縮し、ネコは生と死を「選ぶ」ことを強いられる。同様に人間の心は、同時に意識と無意識の境目の下をよぎっている、複数の半ば形づくられている考えをとらえるようだ。(中略)人間の思考は、初め前意識で重ね合わせ状態にあり、それから重ね合わせが崩れ、波動関数が収縮するとともに意識に現れるというのだ。
量子的な脳という考え方に引きつけられるひとは、物理学者のなかにわずかに、意識研究者の中にいくらか、神秘主義者の中に多数いた。しかし神経生物学者と認知科学者のおおかたは、この考え方をあまり高く買わなかった。量子物理学者もだ。推測の域を出ない面が大きすぎたのだ。それに脳は、量子コンピューティングをおこなうのに都合のいい場所ではない。
(中略)
テグマークは、脳の温度、提案されているさまざまな量子論的対象の大きさ、近くにあるイオンいったものが引き起こす乱れについてのデータを組み合わせて、微小管など脳の中にある量子論的対象である可能の性のあるものが、デコヒーレンスを起こすまでにどれだけ長く重ね合わせ状態にとどまるかを計算した。答はこうだ。重ね合わせは10^-13秒から10^-20秒で消え去る。もっとも速く作用するニューロンが概して10^-3秒ほどの時間で作用するので、脳の量子的性格がどんなものであれ、デコヒーレンスが速すぎてニューロンはこれを利用できないとテグマークは結論づけた。(中略)デコヒーレンスという現象は強力すぎるのだ。脳は結局、古典的なものであるように思われる。
もちろん、この部分についてもさまざまな仮説が提唱されている。例えば、ニューロンは脳内のむしろ「低速な」情報ネットワークにすぎない、という説がある。上記の引用では微小管による量子的な情報のやりとりについて否定的な見解を述べているが、ゼロ・ポイント・フィールドといった考え方の中では、ニューロンを遙かに超える超高速情報ネットワークの存在が提唱されている。仮にそのネットワークによる情報伝達速度が、粒子の重ね合わせが消失するスピードを超えるなら、私たちの体は量子情報コンピューティングを行っていることになる。
もしそうだとすると、脳がそうした超高速ネットワークと「低速な」ニューロン・ネットワークの両方を持っている理由は、量子的な情報処理系と古典的な情報処理系の両方をせめぎ合わせるためかもしれない。その2つの系のせめぎ合いこそ、無意識を含む広い意味の「意識」と呼ばれるものの正体ではないのか──ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
ただ、そうした考え方は現時点では何ら実証されてはいない。つまり、量子論的には何の根拠もない、ただの仮説にすぎない。
では次にコペンハーゲン解釈を巡る問題について見ていくが、その前に一言。「自然科学とは、揺るぎない真理を探究する学問だ」などという勘違いをしてはいないだろうか。「揺るぎない真理」などというものは、たとえあったとしても神ならぬ人間にはわかるはずもないこと。自然科学というのは「さまざまな現象を矛盾なく説明できる解釈を作る学問」なのである。ちなみに、第1部の冒頭に述べた「世界はそれを見る者の意識のあり方によって変化する」という考え方は、このコペンハーゲン解釈の中の一部として述べられたものだ。
量子論の数学は信じられないほど強力だ。信じられないほどの精度で予測をおこない、粒子がどう振舞うかを見事に説明する。しかし、その数学的枠組みには多くの哲学的な障害がともなう。量子論の数学からは、物体を波動関数によってどう記述すべきかはわかるが、波動関数とは何なのかはわからない。実在する対象なのか、それとも数学上の虚構なのか。量子論の数学では対象の振舞いは重ね合わせという現象で記述されるが、重ね合わせがどのように成り立ち、どのように収縮するかは説明されない。(中略)量子論の数学はこのうえなく明快だ。だが、量子論が記述しつつある物理的な実在は、明快さからほど遠い。これについては、コリン・ブルースの『量子力学の解釈問題』(講談社ブルーバックス刊)にもこんな記述がある。
(中略)
主流の科学者は量子力学の数学的結論すべてについてだいたい意見の一致を見るが、こうした結論が現実に何を意味するかという解釈をめぐっては考えが一致しない。(中略)
粒子が重ね合わせ状態で存在しうるのか、そして、からみあった粒子がどうして意思を伝えあうのかについて一つの解釈、説明の仕方として、情報と平行宇宙という考え方を用いて説明するというものがある。しかし、これは(まだ)量子力学の標準的解釈ではない。標準的解釈の座に就いているのは、コペンハーゲン解釈と呼ばれるものだ。(中略)1920年代に創造されたコペンハーゲン解釈は、観測者に特殊な役割を与えることでこの問いに答える。たとえば電子の波動関数は実は、ある位置に電子がある確率を示している。電子が観測されないかぎりこの波動関数はなめらかに変化する。(中略)重ね合わせ状態に入りうるのだ。ところが、観測者が測定をおこない、電子がどこにあるかを突き止めようとすると、重ね合わせ状態は収縮してしまう。(中略)
長年コペンハーゲン解釈は唯一無二の解釈だったが、これには、困った点がいくつかあった。一つには、観測という行為がきちんと定義されていないということがあった。シュレディンガーの猫の厄介な状況のおもな原因となった問題だ。コペンハーゲン解釈は観測とは何を意味するのかという問題に、本当には対応しなかった。観測は、意識をもつ者が測定を行うことと表現されがちだが、観測者は本当に意識がなければならないのだろうか。科学装置が原因で波動関数が収縮することはないのか。コペンハーゲン解釈は、この問題に答を出さなかった。(中略)コペンハーゲン解釈ではこうした大問題に答えが出ていないという事情があるため、二人の物理学者がともにコペンハーゲン解釈を信じていながら、実在の本性についての見方が大きく異なるということがありうる。(後略)
宇宙はいつ、(複数の状態を表す)広がった波によって多数の可能性を描きつづけるのをやめてこれで終わりと決断し、特定のある決まったバージョンの世界に落ち着くのだろうか。結局のところ、「世界はそれを見る者の意識のあり方によって変化する=意識の持ち方が世界のありようを変える」という考え方が正しいのかどうか、私にはわからない。ただ1つだけ言えることがあるとするなら、「そうした考えが量子論に基づいている」という主張は、少なくとも現時点では『体(てい)のいい嘘』以上のものではない」ということだけである。
フォン・ノイマンは、意識を持つ観測者が量子システムを観測した時点以外では、収縮が起こる証拠はないと論じた。(中略)もしもっと長生きしていたら、彼はこの見解を変えていただろうと、私は強く推測する。彼が状態の収縮に与えた物理学的役割と、それをほとんど神秘的な原因に帰したことのコントラストは極めて不自然である。しかし、意識を持つ観測者が状態の収縮に対して神秘的な力をもつという考え方は、ある種の思想家には非常に強くアピールして数十年も生き続けることになる。フォン・ノイマンの考え方は、たとえば1960年代、ユージン・ウィグナーにより拡張されている。
(中略)
ウィグナーの考え方は当然のごとく、たとえばジョン・ベルによって風刺された。(中略)たとえば、
「箱の中に、意識をもつ観測者が猫と一緒に入っていたらどうなるか。猫は箱が開く前であっても、ただちに死ぬことになるのか」
「正確に何が、意識をもつ観測者と見なせるのか。猫は意識を持つ観測者なのか。もしそうならば、ネズミ、カエル、ナメクジはどうか。もし猫がだめならば、チンパンジー、あるいはネアンデルタール人ではどうか。分かれ目はどこにあるのか。観測者は博士号をもっている必要があるのか」
──本当はこの第3部を書き上げるのは、もう少し先のはずだったのだが、連絡もなく治療の予約をすっぽかされたのに頭に来て、怒りにまかせて予定を前倒しして書いてしまった…。
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