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イミテーション・ゲーム

2015-03-18 10:22:42 | 趣味人的レビュー

映画『イミテーション・ゲーム』は、第2次大戦当時、解読不能と呼ばれたナチス・ドイツの暗号「エニグマ」解読を成し遂げたイギリス人数学者、アラン・チューリングの物語。

チューリングは、彼の開発したユニバーサル・マシン(万能機械)と、機械が思考しているかどうかを判定する「チューリング・テスト」によって、フォン・ノイマンと並んで「コンピュータの父」と呼ばれる人物である。

だが、彼の業績が世間に知られるようになったのは、死んでからずっと後のことだ。その1つの理由が、最初に述べた「エニグマ」解読という国家にとっての最高機密に関わっていたことにある。実際、イギリスは「エニグマ」解読に成功した後もその事実を隠し通しながら戦況を巧みにコントロールし、ドイツには最後まで「エニグマ」が解読されたことを悟らせなかった。

ちなみに私がチューリングと「エニグマ」のことを知ったのは、この『イミテーション・ゲーム』が初めてではなく、ずっと前に見た劇団四季の『ブレイキング・ザ・コード』という舞台でだった(Wikipediaによると、『ブレイキング・ザ・コード』が上演されたのは1988年の東京公演と1990年の全国公演とのこと。多分私が見たのは1988年の銀座セゾン劇場での東京公演だ)。そして『イミテーション・ゲーム』と『ブレイキング・ザ・コード』は映画と舞台という違いはあれど、ほぼ同じ内容を扱っている。



第2次大戦下、首都ロンドンが連日ドイツからの空襲を受ける中、自ら「世界一の数学者」と称する1人の青年が、海軍による暗号解読の仕事に応募してやって来る。青年の名はアラン・チューリング。彼はそこで面接官である中佐から「エニグマ」についての説明を受け、目を輝かせる。「誰も解いたことのない暗号を自分の手で解いてみたい」と。

この当時、既にイギリスはポーランド経由で「エニグマ」暗号機の現物を入手していた。またドイツは「エニグマ」暗号を使って作戦を各部隊に伝えていたが、イギリスはその通信を全て傍受していた(その通信は常に決まった周波数で送られていたため、その周波数に合わせさえすれば傍受するのは簡単だった)。

だが「エニグマ」暗号機による暗号は1.5×10^14通り以上(映画では150×10^18通り以上)の組み合わせがあり、しかも毎日午前0時に設定が変更される。つまり、その日に傍受した通信データはその日のうちに解読できなければただの屑になってしまう、まさに時間との戦いであり、そのためにイギリスは国の存亡をかけて、名だたる数学者、言語学者、チェス・プレーヤーらを集めて「エニグマ」解読に当たらせていたのだ。

そのチームでは、日々もたらされる通信データを元に人力で解読に取り組んでいたが、チューリングはその作業に加わろうとせず、ひたすら機械の設計に没頭して、他のメンバからの怒りを買う。そのためチューリングをチームから外そうとする画策が行われるが、逆にチューリングは首相のチャーチルと直談判して自らがチームのリーダーとなり、不要と思われるメンバを首にしてしまう。そんな状態でチームがまとまらない中、10万ポンドを費やした彼のユニバーサル・マシンが完成し稼働を始めるのだが…。


実は私は、マシンが完成するまでがヤマで、完成して動き出した後は一気に暗号解読へと進むのかと思っていたが、そうではなかった。それはチューリング自身にとっても予想外だったようだ。その理由は簡単で、「エニグマ」を解読するには彼のマシンはそのままでは処理速度が足らなすぎたのだ。結局、「エニグマ」解読にはチューリングのマシンだけでなく、不足した処理性能を補う解読のための大きな鍵が必要で、その鍵はとても人間臭いものだった(言い換えれば、ドイツはその人間臭さゆえにイギリスとの情報戦に敗れた、ということになる)。


この「エニグマ」解読は、それに携わった人たちの人生を変えてしまうほどの、まさに「戦争」だったが、同時に彼らの戦いは血や硝煙の匂いとは無縁のものだった。そもそもチューリング自身、この仕事に応募したのは「祖国を守るため」でも「人々の命を救うため」でもなく、ただ「誰も解いたことのない暗号を自分の手で解いてみたい」という動機からだった。『イミテーション・ゲーム』というタイトルは、チューリングが後に発表した電子計算機に関する論文のタイトルから取られたものだが、同時にエニグマを巡る彼の戦いが「イミテーション」としての戦争であったことを示唆しているようにも、私には感じられる(実際、映画の中でCGで描かれた戦闘シーンは安っぽい書割のようにペラペラで、現実感を欠いていた)。

だが、仮にチューリングの戦争が「イミテーション」であったとしても、それを悪いことだとは全く思わない。彼にとって戦争は「イミテーション」であったがゆえに、暗号解読に成功した後、冷徹な決断を下すことができたのだから。それにカール・フォン・クラウゼヴィッツが『戦争論』の中で「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」と書いているように、そもそも戦争とは自国民を人間の盾、人間の矛として行う、形を変えた外交──外交の「イミテーション」なのだから。


更に言えば、チューリングには国家機密に属する仕事をしていたこととは別の秘密があって、そのために彼は断罪され、後に自殺することになるのだが、そこで彼の「イミテーション」としての人生が明らかになる。そう、いくつもの「イミテーション」が入れ子構造になって、この『イミテーション・ゲーム』という物語は成立している。

だが最後に字幕で語られるチューリングのその後を見ていた時、不意に感情が押し寄せてきた。それは、そこに「イミテーション」でないチューリングがいたからなのかもしれない。


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