深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

「ただそこにいる」ということ

2011-04-13 19:10:41 | 趣味人的レビュー

今回はBGMにアニメ『空(から)の境界』第3章「痛覚残留」のOSTからの1曲を選んでみた。


絵を買った。

数年前から1年に1点ずつ絵(時にはオブジェのことも)を買っている。決してお金に余裕があるわけではない。それに何よりウチは治療院が自宅兼用なので、本来なら各部屋に分散して置ける物を、自分が居間として使っている部屋に全部突っ込んでいる。そのため、辛うじて布団を敷くスペースがあるだけで、新しい物を入れる場所などほとんどないような状態だ。

それでも絵を買っているのは、絵に「呼ばれる」からである。

(以前もブログに書いたことだが)私はその作品から「呼ばれ」ない限り1点の絵も買うことはできない。しかしまた、一度「呼ばれ」てしまったら、それを断ることはできない。それで毎年、少ないお金をやり繰りしながら「呼ばれ」た作品を買い続けている。

今回「呼ばれ」たのは、画廊でも絵の展示即売会場でもなく、本田健さんのセミナー会場でだった。

2年ぶりくらいに参加した健さんの1日セミナーで、ある人が質問に立った。絵を描いている、という。休憩時間、その人が持ってきていた絵の印刷サンプルを見せてもらった。パステル調のファンシーな絵柄。普段あまり私が好んで見るような絵ではなかった。しかし見ているうちに、体の奥にかすかに疼(うず)くような痛むような「あの感じ」が。──まさかここで「呼ばれる」とは…というのがその時の正直な感想だ。

とは言え、そこで見たのはあくまで印刷したサンプルで原画ではない。本当に「呼ばれた」のかどうかは原画を見るまではわからないと考え、セミナーの後、その絵を描いたTinkさん(もちろん本名ではない。芸人じゃないから芸名というのも変だし、画号?)にもらった名刺にあったアドレスに「原画を見たい」というメールを送り、直接会って原画を見せてもらうことになった。

印刷したサンプルでさえそうだったのだから、原画の持つ力は、ある意味、圧倒的なものがあったと言わざるを得ない。そして、その中で私を「呼んで」いたのがこの1点だったというわけ(なお写真掲載は作者了解済み)。

だから私がこの絵を買ったのは、絵に「呼ばれた」からであり、Tinkさんに聞かれた時もそうとしか答えなかった。本当は私には語るべきそれ以上のものはないのだが、ここはブログという「言葉によって世界と切り結ぶ場」だから(他の人のブログは知らないが、私のこのブログのはそのためにある)、この人の描く絵についてもう少し言語化してみる。

Tinkさんは約1年半前、何かのインスピレーションを受けて、突然、家にあった使いかけのスケッチブックに絵を描き始めたのだという。それまで絵画の技法に関する高度な専門教育を受けたことがないという、その絵は、確かに技術的には非常に拙(つたな)いと感じる。しかし、もちろん技術レベルだけでその作品を語ることはできない。

Tinkの描く絵は、見る者を励ますのでも慰めるのでも力づけるのでもなく、「ただそこにいる」──そういう絵だ。それは私が買った1枚だけでなく、(絵によって多少のトーンの違いはあるにしても)この人のほぼ全ての絵に共通しているように思われる。

今は「癒し」がブームと化し、世の中には「これでもか」というほどの「癒し」があふれている。そして、そうした「癒し」は大抵、一生懸命に相手を認め、励まし、慰め、力づけようとする。それこそが「癒し」なんだ、と言わんばかりに。

「ただそこにいる」というのは、そうした饒舌な「癒し」の対極にあるものだ。饒舌で力強いメッセージを発する「癒し」の前に、「ただそこにいる」ことは、とても弱々しく無力に見えるかもしれない。しかし、このブログを読んでいるあなたなら、わかるのではないだろうか。「ただそこにいる」ということ、「ただそこにいてくれる」ということが、実はどれだけ心と体の深いレベルと結びつき、変容をもたらすことができるかを。それは、ただ饒舌なだけの「癒し」には決してできないことだ。

「ただそこにいる」ということ──Tinkの絵の本質はそこにあると私は思う。


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