「良いかね、呪術と云うものはね、呪術を信じていない者にしか正しく行使することが出来ないものなのだ。霊を怖がる霊能者は全部インチキだと云うのと一緒さ。霊なんていないと知る者こそが霊を扱える。それこそが本物だ。言霊と云う方便は、言葉の無効性を熟知しない限りは成立し得ない方便なのだ。」
──京極夏彦『邪魅の雫(じゃみのしずく)』より
3では呪法セラピーの不可解な部分を述べたが、今回もまた別の不可解な現象について述べようと思う。で、BGMには雰囲気を出すためにバッハの『小フーガ ト短調BWV578』を選んでみたりしたんだけど、どう?
私はキリスト教徒ではないけど、聖書の有名な一節をいくつか知っている。ただキネシオロジーの筋反射テストで調べると、「聖書の一節は呪法セラピーとしては効果がない」と出てくるので、採集した言葉のリストには入れていない──と言うか、入れていなかった。あの時までは。
その人──仮にAさんとでも呼んでおこうか──はキリスト教徒なのだが、治療していてふと、この人は聖書の一節が効くんじゃないか?と思って、そういうことを話してみた。Aさんからは「それじゃあ」と詩編の何番かをリクエストされたのだが、私はそれを知らなかったし治療室にも聖書なんて置いてないから、自分が覚えているものの中から効果のありそうなものを筋反射テストで適当に見繕って使ってみたところ、これが結構効いたのだ。
で、メデタシメデタシ──では終わらないのが、この記事だ。
いろいろな患者(といっても決して数は多くないが)に呪法セラピーを使っているが、聖書の一節を使ったのはAさんだけ。それで最初は、「Aさんはキリスト教徒だし、やっぱり信じてると効くもんだなー。ある種のプラシーボ効果が含まれることは否定できないということか」と素朴に考えていたのだが、どうもそんな単純な話ではなさそうだということがわかってきた。
といっても、あくまで筋反射テストを使って調べた結果なので、確定的なことは言えないのだが──「聖書の一節を使った呪法セラピーはキリスト教徒には効く」のである。
「何だそりゃ。その前に書いたことをただ書き直しただけじゃん」と言われそうだから別の書き方をしようか。「聖書の一節を使った呪法セラピーは、単にキリスト教を信じているとかキリスト教を学んでいるだけの人には効かず、正式にキリスト教徒になった人にだけ効く」のだ、と。
世界のどの宗教でも同じだが、その教団の一員になるためには「入信儀式」というものを経なければならない。そしてその「入信儀式」で最も重要なのが「私は○○を信じます」といったことを本人が、定められた他の人の前で宣言することである(これをアファメーションという)。そのアファメーションを経て初めて、その人は教団への入信を果たすことができる。
上に述べたように「聖書の一節を使った呪法セラピーは、単にキリスト教を信じているとかキリスト教を学んでいるだけの人には効かず、正式にキリスト教徒になった人にだけ効く」というのが正しいとするなら、ここで2つのことが言える。
1.アファメーションにはそれだけの力がある、ということ。
これは例えば願望実現とか目標達成などの点で興味深いが、ここで重要なのは次の2の方だ。
2.呪法セラピーの効果は必ずしも先天的に決まっているわけではない、ということ。
「必ずしも」と入れたのは、例えば「般若心経」などは相手が仏教徒であるなしに関わらず効果があるからだが、ある療法の効果の有無が相手の後天的な属性や主義主張によって規定されてしまうというのは、とても奇妙ことだ。しかし、そんな奇妙なことが起こってしまうのが呪法セラピーなのである。
ちなみに、相手がキリスト教徒かそうでないかによって選択的に効果が現れるというのは聖書に特徴的なもののようだ(ついでに言えば、それは「キリスト教徒だけが最後の審判で全ての罪を許されて天国に行ける」というキリスト教の教えと不思議な相同関係があるように私には思える)。
もちろん、「相手がキリスト教徒なら、そもそも聖書を信じているのだからプラシーボ効果が働く。だから彼らに聖書の一節が効くのは当然」と考えることもできるだろう。しかし、だとしたら、相手には一切言わずにコッソリ呪法セラピーを使っていても、なお効くのはなぜだろう。
ついでにもう一つ付け加えるなら、
3.もし私がキリスト教徒になるなら、私は私の体に対して聖書を使った呪法セラピーを行うことができる。しかし、それでも相手が非キリスト教徒であるならば、その人に対しては効かない。
つまり、呪法セラピーが効くかどうかは使い手に依拠するのではなく、あくまで受け手に依拠する、ということだ。だとするなら、呪法セラピーにとって使い手の存在とは何なのだろうか?
その場合の、使い手の存在意義って一体・・・?という提議ということですよね?
これは難しいですね~
これって、もし「絶対に私はキリスト教は信じない!」と頑なに信じている人が呪法セラピーを使ったら、その場合は聖書の言葉は無効だったりしないのでしょうか?
それでも効いちゃうなら、効果は受け手に依拠すると認めざるを得ないですが。
実のところ、私はキリスト教を信じてない、と言うか、キリスト教を代表とする一神教的な思想が嫌いなのです(といった話も以前、ブログに書きました)が、それでもキリスト教徒のAさんには聖書の一節が効いてしまうのですね。
ただ、(これも以前、ブログに書いたことですが)呪法セラピーに限らず、私たちがやっている療法というのは使い手と受け手の間の関係性が重要だとも思っています。
だから、信じる-信じない、ということが、効く-効かない、ということとどのように関わるのかについては、本当に難しい問題です。
>では、今度は「外界は内界と異ならず 内界は外界と異ならず」と書いたら? それが「色不異空 空不異色」の「意味」だとしても、これもまた効かない。「音」が変わってしまうから。
大雑把に言えばサンスクリット語は音主体、聖書は映像イメージ主体で、経路が異なると思います。(イメージは「後天的な属性」ですし。)
>聖書の節は発音に気を使っていないので(もし日本語を使っているのならなおさら)、音写されている般若心経と比較するのはフェアではないのでは?
確かに聖書は日本語訳を使っていましたが、般若心経もサンスクリッド語ではなく中国語訳されたものを使っているので、条件としては一緒だと思っていました。
>大雑把に言えばサンスクリット語は音主体、聖書は映像イメージ主体で、経路が異なると思います。
私は比較言語学や宗教学に疎いのでよくわからないのですが、それはオーソライズされた考え方なのでしょうか。
私などは、世界は大雑把に言語的コミュニケーションを主体とする地域と非言語的コミュニケーションを主体とする地域とに分けることができ、キリスト教が広まった欧米などは、まさに言語的コミュニケーションが中心で、仏教が発生し伝わった日本やインドなどは逆に非言語的コミュニケーションが中心だと理解していました(ちなみに中国は、言語的コミュニケーションを主体とする地域です)。
いえ、私の言いたいことはとどのつまりsokyudoさんの仰る事と同じことです。
言葉自体に意味がなく、その言葉の指す対象イメージに意味があるのが欧米型、ということでしょう。(ただ聖書の場合は象徴が使われているので若干違うのですが)
>般若心経もサンスクリッド語ではなく中国語訳されたものを使っているので
ここは一つ私が勘違いしておりました。「般若波羅蜜」や「羯諦羯諦波羅羯諦」など一部はサンスクリット発音ママなのですが、実験で使われている「色即是空」の部分はサンスクリット発音ではないようです。失礼しました。
ただ、般若心経の意味内容自体がそもそも真言(マントラ)を重視している内容ですし、「色即是空」を含め全文にマントラ的(つまり音=非言語重視)な技法が使われているように私には思われます。(般若心経の読経と聖書の朗読の目的は全く違うはずです。)
なので、私としては、漢訳部分である「色即是空」と真言ママである「般若波羅蜜」で呪法セラピーにどのような差がでるかなど興味がある所です。
>真言ママである「般若波羅蜜」
ではなく
>真言ママである「羯諦羯諦波羅羯諦~」
です。
>ただ、般若心経の意味内容自体がそもそも真言(マントラ)を重視している内容ですし、「色即是空」を含め全文にマントラ的(つまり音=非言語重視)な技法が使われているように私には思われます。(般若心経の読経と聖書の朗読の目的は全く違うはずです。)
確かにその通りです。同じ経典といっても、般若心経と聖書では全く性質が違います。ですから、それを同じように使って結果を比較するのは、あまりに乱暴なことでした。
ただここでは、そうした違いを無視してそれぞれを単なるテキストと見なし、その中に出てくる言葉を切り出して使った時、両者にどんな違いがあるかということを遊び感覚で(「患者を使って遊んじゃダメでしょう」ということはあるにしても)試してみた、ということです。
聖書も、それ自体がある種の象徴体系であることは私でも多少は承知しているので、例えばその象徴を具体的に読み解いたといわれる『ゾハール』を使って同じことを行うと、全く違った結果が出てくるのかもしれません。ただ残念ながら私の手元には『ゾハール』がないので、それができません。
この手の分野についてはあまり論理的に固めると霧に踏み込んだようになるので、ある程度のアバウトさが残されていて健康的だと私も思います。
では。
ありがとうございます。
この手の話は私も「論理的に追求していくことで真理に到達できる」などとは全然思っていません。
これからも、ゆる~くやってまいります。