仏教のことはほとんど何も知らないが、昔からマンダラには心引かれるものがあって、行こう行こうと思いながら、別の予定が重なったり、忘れてしまっていたりで行けなかった埼玉県立美術館の『マンダラ展 チベット・ネパールの仏たち』に、最終日の24日にやっと行くことができた。
埼玉に住んで長いが、県立美術館に行ったのは今回が初めて。日曜日は雨になるような予報だったが、台風がそれてくれたおかげで、カラッとした穏やかな晴天に迎えられるように『マンダラ展』に。そこには、チベット、ネパール、インド、モンゴル、そして日本…各地から集められた仏像、仏画、そしてマンダラが待っていた。
それにしても、仏像も仏画もマンダラも、その前に立つと何かエネルギーを感じるね。それは、それが宗教に関わるものだからなのか、美術品として完成度が高いものだからなのかはわからない。最近は美術展や展覧会に行くこともめっきり少なくなってしまったが、そう言えば、以前はあまりそういうことを意識したことはなかったと思う。多くのものを見ることによってではなく、見なくなったことによって、見えてくるものもあるということか。
さて、会場は仏、菩薩、女神、護法神、群小神、祖師、そしてマンダラへと続いていくのだが、人間の宗教に掛ける情熱とイマジネーションの力というのは、やはり凄いものがある。超細密に描かれた異形の仏たちの姿は、見る者を圧倒する。これは西欧のキリスト教美術にも言えることだが、宗教は人の心の奥底にまで入っていくものであるせいか、あるところを越えると、崇高さとグロテスクの境目がなくなっていくのかもしれない。天国も地獄も、善も悪も、美や醜の概念も、所詮は「人の作りしもの」なのだから。ヒエロニムス・ボッシュ(ボス)の描いた地獄の絵など、異形の者どもが跳梁する異形の世界でありながら、皆、生き生きとしていて実に楽しそうだ。ボッシュの絵を見ていると、「地獄に行くのも悪くない。むしろ、退屈そうな天国の絵に比べると、こっちの方がずっと面白そうだ」と、いつも思う。
さて、今回の『マンダラ展』を見ていて気づいたこと…それは、イスラム教のモスクを飾るアラベスク文様も、ケルトの組紐文様も、そしてカバラの「生命の木」も、実はみんなマンダラのヴァリエーションだったんだ、ということ。と言っても、会場にアラベスク文様や組紐文様が展示されていたわけではない。会場を出て、美術館のショップを覗いていた時、ポストカードを買っている人がいて、そのポストカードがアラベスク文様だったのを見て、ふと気づいた。ユングがマンダラを集合的無意識の一つの根拠としたのもよくわかる。
ここで、いきなりマンガの話で恐縮だが、諸星大二郎の『暗黒神話』(集英社刊)によると、両界マンダラのうちの胎蔵界曼荼羅は空間構造を、金剛界曼荼羅は時間理論を、それぞれ神秘的な図像で表したものなのだという。この話の真偽は不明だが、いずれにせよマンダラとは宇宙図──それも究極の宇宙図の一つと考えていいだろう。そして、世界中にあるさまざまな図像がマンダラのヴァリエーションであるとすると、世界には既に究極の──あるいはそれに近い──宇宙図があふれていることになる。奥義とは誰の目にも触れないところに奥深く隠されているのではなく、誰にでも見えるところに常に開かれているものだ、と言ったのは誰だっただろう? そう、奥義とは探し求めるべきものではなく、「今ここにある」ことに気づくべきものなのかもしれない。
ところで、会場にはマンダラ塗り絵を自分で実際に行えるコーナーもあって、それもやってきた。マンダラ塗り絵は、最近はいろいろな本も出ているが、ここのコーナーではこんなルール?が設けられていた。
1.色数は5色くらいを基準にする(が、それより多くても少なくてもいい)。
2.隣り合った領域を同じ色で塗るのはいいが、領域は一つひとつ分けて塗る。
3.全部塗り終わったら、5m以上離れて見てみる。
まぁルールと言っても、特に何かを禁止するとか強制するようなものではないが、ルール3はぜひやってみてほしい。塗っている間は、せいぜい30cmくらい上から見て配色などを考えるが、塗り終わったものを5mくらい離して見ると、小さな配色の違いが消えて色と色とが混じり合い、マンダラが30cm上から見たのとは違う姿を見せる。私もできあがったマンダラを5m離れて見た時、「自分って、こういうヤツだったんだ」と、自分という人間に初めて会った気がした。そうか、「自分」というものも、探し求めるものではなく、「今ここにいる」ことに気づくものだったのだ。
…というわけで、いろいろな気づきのあった一日だった。仏様たちに感謝、である。
まお、このマンダラ塗り絵は心理療法などでも実際に使われているらしい。マンダラ塗り絵は本を買ってやってもいいが、埼玉県立美術館のHPからダウンロードすることもできる(メニューから「企画展」を選び、『マンダラ展』を探す)。ぜひお試しあれ。
埼玉に住んで長いが、県立美術館に行ったのは今回が初めて。日曜日は雨になるような予報だったが、台風がそれてくれたおかげで、カラッとした穏やかな晴天に迎えられるように『マンダラ展』に。そこには、チベット、ネパール、インド、モンゴル、そして日本…各地から集められた仏像、仏画、そしてマンダラが待っていた。
それにしても、仏像も仏画もマンダラも、その前に立つと何かエネルギーを感じるね。それは、それが宗教に関わるものだからなのか、美術品として完成度が高いものだからなのかはわからない。最近は美術展や展覧会に行くこともめっきり少なくなってしまったが、そう言えば、以前はあまりそういうことを意識したことはなかったと思う。多くのものを見ることによってではなく、見なくなったことによって、見えてくるものもあるということか。
さて、会場は仏、菩薩、女神、護法神、群小神、祖師、そしてマンダラへと続いていくのだが、人間の宗教に掛ける情熱とイマジネーションの力というのは、やはり凄いものがある。超細密に描かれた異形の仏たちの姿は、見る者を圧倒する。これは西欧のキリスト教美術にも言えることだが、宗教は人の心の奥底にまで入っていくものであるせいか、あるところを越えると、崇高さとグロテスクの境目がなくなっていくのかもしれない。天国も地獄も、善も悪も、美や醜の概念も、所詮は「人の作りしもの」なのだから。ヒエロニムス・ボッシュ(ボス)の描いた地獄の絵など、異形の者どもが跳梁する異形の世界でありながら、皆、生き生きとしていて実に楽しそうだ。ボッシュの絵を見ていると、「地獄に行くのも悪くない。むしろ、退屈そうな天国の絵に比べると、こっちの方がずっと面白そうだ」と、いつも思う。
さて、今回の『マンダラ展』を見ていて気づいたこと…それは、イスラム教のモスクを飾るアラベスク文様も、ケルトの組紐文様も、そしてカバラの「生命の木」も、実はみんなマンダラのヴァリエーションだったんだ、ということ。と言っても、会場にアラベスク文様や組紐文様が展示されていたわけではない。会場を出て、美術館のショップを覗いていた時、ポストカードを買っている人がいて、そのポストカードがアラベスク文様だったのを見て、ふと気づいた。ユングがマンダラを集合的無意識の一つの根拠としたのもよくわかる。
ここで、いきなりマンガの話で恐縮だが、諸星大二郎の『暗黒神話』(集英社刊)によると、両界マンダラのうちの胎蔵界曼荼羅は空間構造を、金剛界曼荼羅は時間理論を、それぞれ神秘的な図像で表したものなのだという。この話の真偽は不明だが、いずれにせよマンダラとは宇宙図──それも究極の宇宙図の一つと考えていいだろう。そして、世界中にあるさまざまな図像がマンダラのヴァリエーションであるとすると、世界には既に究極の──あるいはそれに近い──宇宙図があふれていることになる。奥義とは誰の目にも触れないところに奥深く隠されているのではなく、誰にでも見えるところに常に開かれているものだ、と言ったのは誰だっただろう? そう、奥義とは探し求めるべきものではなく、「今ここにある」ことに気づくべきものなのかもしれない。
ところで、会場にはマンダラ塗り絵を自分で実際に行えるコーナーもあって、それもやってきた。マンダラ塗り絵は、最近はいろいろな本も出ているが、ここのコーナーではこんなルール?が設けられていた。
1.色数は5色くらいを基準にする(が、それより多くても少なくてもいい)。
2.隣り合った領域を同じ色で塗るのはいいが、領域は一つひとつ分けて塗る。
3.全部塗り終わったら、5m以上離れて見てみる。
まぁルールと言っても、特に何かを禁止するとか強制するようなものではないが、ルール3はぜひやってみてほしい。塗っている間は、せいぜい30cmくらい上から見て配色などを考えるが、塗り終わったものを5mくらい離して見ると、小さな配色の違いが消えて色と色とが混じり合い、マンダラが30cm上から見たのとは違う姿を見せる。私もできあがったマンダラを5m離れて見た時、「自分って、こういうヤツだったんだ」と、自分という人間に初めて会った気がした。そうか、「自分」というものも、探し求めるものではなく、「今ここにいる」ことに気づくものだったのだ。
…というわけで、いろいろな気づきのあった一日だった。仏様たちに感謝、である。
まお、このマンダラ塗り絵は心理療法などでも実際に使われているらしい。マンダラ塗り絵は本を買ってやってもいいが、埼玉県立美術館のHPからダウンロードすることもできる(メニューから「企画展」を選び、『マンダラ展』を探す)。ぜひお試しあれ。
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