これはつい先日届いたばかりの市の広報である。トップページでは「実は…市民の1/3が『がん』で亡くなっている」として、癌検診を呼びかけている。
私は癌検診はおろか特定健診すら一度も受けたことがないので、こういうのを見るとドキッとしてしまうのだが、この広報を見ていてふと気づいたことがある。
まず最初に断っておかなければならないが、日本では死因の1/3は癌によるもので、だからこのように癌検診を呼びかけることは行政として至極真っ当なことだ。かつては「癌宣告は死刑宣告」などと呼ばれたこともあったが、医療技術の発達によって検査による体への負担も減り、早期の段階で癌を検出して処理することも可能になった。(受けてない私が言うのも変な話だが)国民の多くが定期的に癌検診を受けるようになれば、本当に「日本人の3人に1人は癌で死ぬ」という現状を変えられるところまで来ているのかもしれない。
それは素直に凄いことだと思うし、だからそうした取り組みをdisる意図は全くない。ただ、思ってしまったのだ。
仮に癌検診が国民の間に自然なこととして浸透し、「日本人の3人に1人は癌で死ぬ」ということが過去のことになったとしたら、我々は何によって死ぬのだろう?と。
誤解されたくないので一応述べておくが、私は何も虚無的になっているわけではなく、あくまで冷静に事実を積み上げてこれを書いている。
癌に対する医療技術はこの先も発達を続けるだろう。だから癌によって死ぬというリスクを非常に小さなものにすることは可能になる。けれども仮に癌で死ぬリスクをゼロにできたとしても、我々には「死なない」という選択肢はない。私はそこに気づいてしまった。
癌で死なないのなら、別の何かで死ぬことになる。「癌にならなかった、バンザイ!」だけでは終わならないのだ。では癌にならなかった我々はどこへ行くのだろう? 交通事故や自然災害による不慮の死? 認知症になって自分が誰で今どこにいるのかも分からなくなって死ぬのは、癌で死ぬより幸せだろうか? 老衰にまで辿り着けても、私のように家族も友達もいない人間は孤独死の公算が高い…。
だから癌検診も実は「死に方の選択」としてあるはずのものなのだ。つまり「私は癌じゃなく心疾患で死にたいと思ってるので」とか「交通事故死がいいので、その前に癌になるようなことがあっては無念だから」癌検診はちゃんと受ける、というのが理屈に合っている…ような気がする。だから逆に、癌で死にたいという人はもちろん、「何でもいいからとにかく早く死にたいので」癌検診は受けない、というのも当然あり、ということになる(もしこの下りを読んで違和感や嫌悪感を感じるとしたら、あなたは「癌にならない=死なない」と勘違いしていないだろうか)。
昔、会社員をしていた時、1つのところに長く勤めることがいい」という風潮の中、ソニーが「辞めやすい会社」というコンセプトを打ち出してきてオオッ!と思ったことがある(これは「ソニーに何年か勤めれば、どこの会社に行っても通用するスキルが身につきます」という意味だったのだが)。
そういう意味では、社会全体が(どこか強迫的に)「生きる」という方ばかり見て「死」から目をそらしている中、そのアンチテーゼとして、生き方だけなく安楽死なども含めた死に方も個々が自由に選べる「死にやすい社会」というのは案外いいのではないだろうか。
「死にやすい社会」などというと「お前、人の命の重さをどう考えてる!」と反発を感じる人もいるかもしれないが、アニメ『ゴールデンカムイ』の中に
「人は死すべき時に死ななければ、死に勝る恥があるといいます」
というセリフもある。「死にやすい社会」とは「生を全うできる社会」ということでもあるのだ。ちなみに先のセリフを投げかけられた相手は
「私はあと100年生きるつもりだ」
と返している。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます