湊かなえ原作・脚本によるドラマ『高校入試』は、私の中では2012年のベスト1だ。今や大学も学校を選びさえしなければ、ほぼ必ずどこかに入れる時代に、高校入試そのものをドラマの題材にするなど考えもしなかったが、これが滅法面白かった。
そういうわけで以下、ドラマのED「青い春」とともに。
現実には、ほとんどの学校で競争率などあってなきがごとしの高校入試を題材にするには、視聴者を納得させられるだけの綿密な舞台設定が必要だ。そこで『高校入試』では、ドラマの舞台となる県立橘第一高校を次のように性格づけている。
──県立橘第一高校は歴史と伝統を誇る県下屈指の名門校で、大学進学率も高い。何より地元において一高の名は絶対で、地元では一高には入れなかったものの一流企業でバリバリ活躍している者より、就職浪人のフリーターでも一高出の方が高く評価され、縁談があっても一方だけが一高の出だと「釣り合いが取れない」と断られてしまうほど。だから、特に地元に留まり続ける者にとっては、一高に入れるかどうかで、その後の人生が決まってしまうという側面がある。
それだけに橘一高出身者は、自分が一高出であることに並々ならぬプライドを持っている人も少なくなく、同窓会の地元に対する影響力も強い。
また橘一高には「一高伝説」と言われるものがある。「高校の合格発表が終わると、一高周辺の粗大ゴミ置き場に大量の学習机が捨てられる」という伝説が。学習机を捨てるのは「一高に落ちてしまったから」ではない。「一高に受かったから」だ。つまり、“人生の勝利者”の切符を手にしたから、もう学習机なんて不要、ということなのだ(本当のところは「一高に受かったのを機に机を新調する」という理由らしいが、伝説自体は事実)。
だからこそ、一高の受験は受験生にとっては大学入試より切実なものがある──。
そんな橘一高で入学試験の前日、試験室に予定している全ての教室の黒板に「入試をぶっつぶす」と大書きされた模造紙が貼られていた。在校生は既に全員帰宅させ、関係者しかいないはずの、いわば密室状態にある学校に誰がこんなものを仕掛けたのか? そして、これは単なるイタズラか、それとも「犯行予告」なのか?
このドラマはこうして始まり、13回のほとんど全てを費やして、入試前日から当日にかけての2日間の出来事を描く。前半は、犯人はどのようにして「入試をぶっつぶ」そうとしているのか、そして後半はもちろん、その犯人は誰なのかが物語の軸となる。
湊ちひろがこの物語の脚本を書くに当たって決めたのは、「登場人物の“心の声”を描かない」ということだという。ドラマではよくナレーションなどで登場人物の心情を語ることがなされるが、実生活では相手の心の声が聞こえることはない(そうでない人もいるようだが、私を含めた多くの人はそうだろう)、ということが理由らしい。
“心の声”を封印した代わりに効果的に使われるのが、ネットの掲示板だ。入試の前日、誰かが掲示板にも「入試をぶっつぶす」と書き込み、その後、入試当日には実際に今試験中の問題が次々にアップされている事態が発覚。入試実務にあたっている一高の教師陣は混乱に陥る。そして最終科目である英語の時間、事前に受験生全員から提出させて別室に保管してあるはずの携帯電話が試験会場の中で鳴って…。
朝日新聞の番組評にもあったが、入試に備えて完璧に練られていたはずの学校側のシステムが不測の事態によって次々に綻びを見せていく様は、まさに圧巻のサスペンス。これだけでもこのドラマを視る価値はあると思うが、それだけでは終わらない。
ミステリで重要になるのが「犯人をいかに隠すか」である。実はこの『高校入試』で犯人を隠すために使われている手法は、ある有名なミステリ作品と同一のものなのだが、それがいわゆるパクリになっていないのは、その作品で使われたトリックをこのドラマでは全く別の形で実現しているからだ。もちろん、そんなことを知らなくてもこのドラマは十分楽しめるが、第12回で湊ちひろの仕掛けたトリックに気づいた瞬間、私は思わず心の中で唸ったね。「やられた!」と。
ある雑誌のドラマ批評で『高校入試』について、「餅は餅屋。原作者は原作だけ書いて、シナリオはプロに任せるべきだった」という意見があったが、私はそうは思わない。この作品は紛れもなく湊ちひろの勝利である、と。
それから余談になるが、『高校入試』を視ていたら、昔視た山田太一の『教員室』という単発ドラマを思い出した。かなり記憶が曖昧になっているが、あれは「荒れた学校」が社会問題になっていた頃だったと思う。ほとんど教員室(職員室)だけを舞台に、そんな時代の教員たちの姿を描いたドラマだった。
職員会議の中で、男性教師と女性教師、若手とベテラン、組合員と非組合員、管理職と非管理職など、さまざまな立場の違いが教員同士の対立と反目を作り出していく構図が、山田太一らしいセリフの応酬でリアルに浮かび上がっていく。
そしてクライマックスで突然、職員会議中の教員室の窓ガラスが割られる。誰が何のために? だが、それをキッカケに対立しあっていた教員同士の間につかの間、小さな連帯が生まれ、姿の見えない脅威に向かって皆が教員室から外に歩み出ていくシーンで終わる。
あの時、教員たちが歩み出た先で見たものは何だったのだろう? そして今回、「入試ぶっつぶし計画」を通じて教員たちは何を得、何を失ったのだろうか? 最後に語られる「失う覚悟のない者は責任すら取らせてもらえない」という言葉が不思議な余韻を残す。
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真っ当な世の中は、この世の外にある。すなわち、その内容は頭の中にある。
日本人は、暗記力にばかり頼るので、頭でっかちな人間になる。
よく世間では「頭でっかちな人間になってはいけない」と言われているが、彼らは受験地獄界の王者となっている。どこが悪いか。
日本人の場合は、叡智となるべき領域が雑念に置き換えられている。
非現実の内容を文章に仕上げることができない。
文章がなくては、筋が立たない。理論が空論になり、理想が空想になる。
こうした脳内環境では、聖人・君子は育たない。
コメントいただき、ありがとうございます。
私も学生だった頃ならnogaさんの主張に同調できるところがあったのだと思います。けれども、それなりの歳になった今では、ずいぶん考えが変わりました。
>所詮この世は仮の世。
>真っ当な世の中は、この世の外にある。すなわち、その内容は頭の中にある。
「世」とは、nogaさんが「仮の世」と呼ぶものを含めた、も大きなものだと私は思うのです。その全てが「世」であり、そこには本来、中心も辺境も、「ここからここまでが真実で、それ以外は嘘」といった境界もありません。自分がそう(恣意的に)意味づけしない限り。
私にとっての「世」とは、そうした何でもありのものなので、実は私は「何が真実か」といったことには、あまり関心を持っていません。
私にとって真実とは「自分が真実だと思うこと」です。それは「私にとっての真実」であって「別の誰かにとっての真実」ではないかもしれない。しかしそれは、私と別の誰かとの「世」に対する意味づけの違いでしかありません。
だから、nogaさんが考える「世」の姿もまた、そうしたものの1つとして承りました。