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「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

伊藤計劃(けいかく)の刻むリズム

2010-08-12 21:29:43 | 趣味人的レビュー

左肩をケガしてから、たまっていた小説を読んでいる。

ケガで左腕が自由に動かず、ちょっとした料理を作るのも難しいため、どうしても外食が多くなる。注文してから料理が出てくるまでの時間をボーッと過ごすのも勿体ないので、これまで買ったまま読まずに放置していた小説を持って行く。読み始めると面白いので、どんどん進む──といった具合。それに、しばらく小説から離れていたが、本を見る目は少しも鈍っていないことも、うれしかった。

そんな中の極めつけの1冊が、伊藤計劃の『虐殺器官』(ハヤカワ文庫)だ。

その本が傑作かどうかは最初の1行を読めばわかる、と言われるが、この本はまさにそうだ。最初の1行とは言わないが、最初の1ページを読めば、この本の著者が並の書き手でないことはすぐにわかる。この本──『虐殺器官』はこのように始まる。

 泥に深く穿(うが)たれたトラックの轍(わだち)に、ちいさな女の子が顔を突っ込んでいるのが見えた。

 まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝(さら)している。
 そこから十フィートと離れていないところに、こんどは少年が横たわっていた。背中から入った弾丸は、少年の体内でさんざん跳ね回ったあと、へその近くから出て行こうと決めたようだった。ぱっくりひらいた腹からはみ出た腸が、二時間前まで降っていた雨に洗われて、ピンク色にてらてらと光っている。かすかに開いたくちびるから、すこしつき出た可愛らしい前歯がのぞいていた。まるでなにか言い残したことがあるとでもいうように。

何より凄いのは、この文章の刻むリズムだ。リズムといっても、七五調で書かれているとか韻を踏んでいるといった形式的なことではない。そういった形式的なものから遠く外れていながら、この文章は確かにリズムを──それも、この上なく心地いいリズムを──刻んでいる。凄惨な場面を描写しながら、そこに漂う詩情──それを支えているのが、伊藤計劃の書く文章の持つリズムである。

この『虐殺器官』を読むまで、文章にリズムがあるなんて思ったことはなかった。だが考えてみれば、小説に限らず、いい文章には必ず、文章そのものに、ある心地いいリズムがあったように思う。文章とは意味を伝える以上にリズムを伝えるものだということを、私はこの本を通じて知ったのだった。そして、実はそのことはこの小説が描く物語の核心部分とシンクロしている(実際、もし既に『虐殺器官』を読んだ人がいたら、上に述べた下りを読んでニヤッとしただろう)。

この『虐殺器官』が描くのは9・11を経た近未来(恐らく2020年頃)の世界。主人公は、陸軍(アーミー)、空軍(エアフォース)、海軍(ネイビー)、海兵隊(マリーンズ)、情報軍(インフォメーション)からなるアメリカ五軍の中の情報軍特殊検索群i分遣隊に所属するクラヴィス・シェパード大尉。彼ら特殊検索群i分遣隊の任務は、大量虐殺が行われている地域に潜入し、その首謀者(彼らの言葉では「第一階層(レイヤー・ワン)」)を暗殺すること。その彼らが今追っているのが、その男が現れるところ必ず大量虐殺が起こると言われる、ジョン・ポールという名のアメリカ人である。テロへの備えとして、世界中あらゆるところに認証システムが取り付けられ、あらゆる人の動きが追跡可能になりつつある、そんな時代にあって、一切の痕跡を残さぬまま様々な場所に姿を現し、またそこでは例外なく大量虐殺が起こる──そんなジョン・ポールを追って、シェパードたちはプラハへと飛ぶ…。

別のインタビューで、伊藤計劃は『虐殺器官』を、肝心のジョン・ポールがどのように大量虐殺を引き起こしているのか、という物語の核心部分を全く考えていない状態で書き出してしまった、といったことを語っていた。だから「あれ」を思いつかなかったら最後はどうなっていたか、と。しかし、その「あれ」は最初から文章の中に刻み込まれていた。いや「あれ」とは伊藤計劃の書く文章そのものだったと言ってもいい。物語を語る文章が、物語の核心そのものとシンクロしている物語──『虐殺器官』とは、そんな物語だ。

そんな物語を含め、今までに伊藤計劃が発表した作品は3編の長編と3編の短編、そして未完となった第4長編『屍者の帝国』のプロローグ部分の草稿。これらは全て、彼が死を迎えるまでの3年間に書かれたものだという。それ以外の彼が遺した膨大なテキストは「伊藤計劃:第弐位相」で読むことができる。


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