私は、私がわからない。
劇中、城野美姫はそんなモノローグを語る。映画『白ゆき姫殺人事件』の中の1シーンである。
『白ゆき姫殺人事件』はこんな物語だ。
赤星雄治はtwitterにラーメン屋ネタを投稿する、小さな映像制作会社に勤めるしがない男だが、そんな彼のところに後輩の狩野里沙子から思いがけない電話が入る。「先輩OLが殺害されたのだが、その犯人は同じ会社の別の先輩OLではないか」というのだ。
そのOL、三木典子は会社では気立てのよい、面倒見のよい美人として知られていたが、その彼女が別の先輩OLの退職の送別会の次の日、国定公園のしぐれ谷で遺体で見つかった。遺体は腹部をメッタ刺しにされた上、火をつけられていた。
三木は会社では狩野の指導係であり、だから狩野は三木のことをよく知っていた。そして狩野は、三木を殺したのは三木の同期だった城野美姫ではないか、と赤星に告げる。実際、確認されている限り城野は三木が生前、最後に会った人物であり、また三木が殺害された日から出社しておらず、連絡も取れないという。
そんな狩野の話を聞きながら、その中身をtwitterに投稿する赤星。そして、彼が会社関係者に取材すると、城野の犯行を暗示するような証言がいくつも得られ、俄然興味を持った赤星は更に、城野の大学時代の知り合いや郷里の幼馴染みまで訪ねて話を聞きながら、同時にその取材での証言を面白おかしくTwitterに書き込んでいく。
彼女たちが勤めていた会社が「これであなたも白ゆき肌」というCMで知られる化粧品会社だったことから、マスコミによって「白ゆき姫殺人事件」と命名されたこの事件は、かくしてネットを中心に、消えた城野美姫への魔女狩りの様相を呈していく…。
ま、せっかくなので予告編も貼り付けておこう。
さて、この物語は、1人の市民の人物像がネットによって拡大再生産され、怪物のような存在として語られてしまう、現代という時代を描いていると言われている。けれど、私は実際に映画を見ていてそうは思わなかった。なぜなら、事件後から行方がわからないという点を含め、ほとんどの証言や状況証拠は城野美姫の犯行を示唆するものだからだ。
私にとって面白かったのは、赤星が取材を重ねていくと城野美姫について彼らの証言が微妙に食い違い、矛盾している点だった。新たな証言が加わると、それまでの城野美姫の人物像が大きく覆されていくのだ。が同時に、その証言の最大公約数的な部分では城野美姫は限りなく黒に近くなっていく。
「自分のことは自分じゃよくわからない」というのは私自身、いつも感じていることだが、では他人のことならわかるのか?、人はどこまで他人のことを理解できているのか?というのが、この作品が突きつけた問いの1つのように感じる。
原作は湊ちひろ。人間の最も隠しておきたい部分をえぐり出す作家だけに、この『白ゆき姫殺人事件』でも容赦がない。ただ赤星雄治という人物のチャラさによるものなのか、この映画は不思議な軽さがあって、それがタイトルとも相まって「現代のおとぎ話」のような感じを醸し出している。
ところで、しばらく前までミステリの基本原則は「最も疑わしくない人物こそが犯人である」だった。しかし、そういうことが広く知れ渡り、それでは意外性がなくなってしまった咋今では「最も疑わしい人物がやっぱり犯人である」というものも出てきている。そういう意味で、この作品もまた決して油断できない。
最後に、冒頭に引用した城野美姫のモノローグに対して、西尾維新の「物語」シリーズの中の『恋物語』に、こんなダイアローグがあるので、それを引用してこの文章を終えたい。
「自分で自分が何をやっているのか、実はわかっていないんじゃない?」
「自分で自分が何をやっているのか、わかってるヤツなんているのかよぉ?」
お久しぶりです。コメントありがとう。
相変わらずとてもヒマしてて、そんな中で自己分析みたいなこともやっていますが、やっぱり、やればやるほどわからない、というのが正直なところです。
よく心理学などで「田」の字を書いて、左上の四角が「自分自身も周囲も認識している自分」、右上の四角が「自分だけが認識している自分」、左下の四角が「他人だけが認識している自分」、そして右下の四角が「自分も他人も認識していない自分」で、それを全部ひっくるめたものが自分だ、というのがあります。
そうしてみると、結局は自分1人ではもちろん、他人を交えても、自分の全てを把握することなんかできないんでしょう。
本文にも書いた通り、
>「自分で自分が何をやっているのか、わかってるヤツなんているのかよぉ?」
ということですね。
ゼロという小説を思い出しました、
それは、人の気持ちがわからないのか?と先輩からいわれた、堀江さんが、「人の気持ちなんかわかるわけないでしょ」と反論してしまう内容でした、
自分もそうですが人の気持ちを理解したいと思って
いても、できないものはできない
人の気持ちを本当に理解出来ていたら私は今頃
億万長者になっているだろうなと思いましたし
友達や先輩なども私から離れていくことはなかった
です、
自分がわからない、この言葉に違和感を感じてしまうからこそ、日々悩むしいくら自己分析を行っても
結果はそのときの感情でも左右されます
ですから
他人が見えている自分というのが本来の自分かもしれませんね、
ブログで悪い人で会ってみたらいい人と
言う人がいるが、ブログや文章の方の性格が
本来の性格らしいです、
ブログやソーシャルはその責任も追うべきだと
アメブロ立ち上げてる会長さんも言ってました
長々なりましたが先生お元気でしたか?
という文章を書くだけなのもなんだかなぁと
思いましたので、長文になりました