語りえぬものについては沈黙しなければならない。(ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン)
高畑勲が14年ぶりに制作した劇場アニメ『かぐや姫の物語』は、見終わって40時間以上経った今も、私の体の中にさざ波のような波動を残している。
宮崎駿の作品は、観客が意識できなくても実は潜在意識では感じ取っているので、それが作品の空気感になるからと、非常に微妙な動きの描写まで精密になされているというのは有名な話で、実際『ニューズウィーク日本版』にも取り上げられている。
だが、高畑勲は宮崎駿とは全く違うやり方で、見る者の潜在意識に直接働きかける作品を作っているようだ。
──いや、そうじゃないな。「見る者の潜在意識に直接働きかける」というのは、どうも違う。もっとふさわしい言葉を選ぶなら、「見る者の存在/あり方を揺さぶる」というべきだろう。だからこそ、これを作るまで14年かかった、とも言えるのかもしれない。
私がこの『かぐや姫の物語』を見ようと思ったのは、「姫の犯した罪と罰」というコピーに惹かれたからだった。これを書くために初めて公式HPを見たところ、このコピーに書かれたことこそ、『かぐや姫の物語』のメインテーマだったことがわかる。
かぐや姫がどうしてこの地に心を残し、かぐ月へ帰ることをあれほど嘆き悲しむのか。かぐや姫はいったい何のために地球にやって来て、なぜ月に帰ることになったのか。この地で何を思い生きてきたのか。かぐや姫の罪とは、その罰とはいったい何だったのか。(公式HP 解説より)
けれども、正直なことを言うと、見終わった今もその「罪と罰」が何だったのか私にはあまり判然としないのだ。確かに物語の中でそれに関わることは語られていたのだが、そのセリフがどうしても心にストンと落ちてこなかった。
そういう意味では、『かぐや姫の物語』は私にとって残念な作品ということになるのだが、冒頭に書いたように、『かぐや姫の物語』によって受けた何かが自分の中に残って、今も波打ち続けているのだ。
それが何なのか、私には言語化できない。語ることができないものには沈黙するしかない。ただ1つ言えることがあるとするなら、この映画は見る人によって全く違うものに見えているはずだ、ということ。それは、この映画が「作者が訴えたかったものを受け取る」ためのものではなく、「自分という存在と相対する」ためのものだからだ。
ここで、ちょっと長いが予告編を視てもらおう。
アニメの顔となる絵は、一見してわかるようにCGを始めとしたハイレベルなテクニックを駆使した他のアニメ作品の対極にある、アニメーターの鉛筆書きした線をそのまま生かし、色も塗り残しやムラの目立つ非常に素朴なタッチで描かれているが、それもまた(最初からそれを意図していたかどうかはわからないが)「見る者の存在/あり方を揺さぶる」ための装置として機能している。
これまでも『竹取物語』はさまざまに映像化されてきたが、この『かぐや姫の物語』はこの絵をもってしか成立しなかったと思う。
なお、登場人物の顔がその声を当てている「中の人」に合わせて描かれているのがご愛敬。これもまたアテ書きというのかな?
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