今回はBGMに『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(あの花)』の主題歌だったGalileo Galileiの「サークルゲーム」なんかどうだろうか。
私には霊感と呼べるようなものは1ミリもないが、元カミさんはいわゆる「見える」人で、子供の頃から霊の類をよく見ていたらしい。
見てない割に私も不可解な超常現象には目がないクチだが、さすがにその全てを真に受けるほど純真ではなくなった。それに、長らく科学者が超常現象に触れるのはタブーとなっていたのが、最近では超常現象をキチンと科学的に解明しようというという研究も世界的に進んでいるという。
そんな中、オリヴァー・サックスの『見てしまう人びと:幻覚の脳科学』が出たので、早速読んでみた。
虚空にいくつもの人の顔が浮かぶのが見える。そこにいないはずの人の声が聞こえる。突然まわりが輝き出して天からの啓示を受ける。帰宅すると部屋の中にもう一人の自分がいる。──『見てしまう人びと』は、そんな超常現象、神秘体験として語られがちな「幻覚」について脳科学、精神病理学の立場から述べた本である(この本の原題『Hallucionation』は、そのものズバリ「幻覚」という意味だ)。
著者のオリヴァー・サックスは医師であり、映画『レナードの朝』の原作など多数の著作がある。私にとってサックスの本は『火星の人類学者』以来、2冊目となる。
『見てしまう人びと』の中には幻覚のさまざまなケースが出てくる。それらは脳の特定の部位の損傷が原因であったり、ある種の薬物(必ずしも麻薬の類いとは限らない)によって誘発されたものであったりするものもあるが、シャルル・ボネ症候群(CBS)のように感覚が何らかの形で遮断されたり、幻肢のように体のある部分を失うことによって現れてくるもの、ストレスなどの心理的な要因が引き金になるものもあり、そのバリエーションは多種多様だ。
そうしたケースを見ていくと、幻覚を感じることよりもむしろ、さまざまな感覚入力を一貫した整合性をもって認識できていることの方が奇跡のように思えてくる。
サックスはそこまで言及していないが、そもそも感覚を通じて認識しているものは我々の外に客観的に存在しているのだろうか?
こういう問いに対する一般的な答えとしては、「それを知覚(認識)しているのは私一人ではない。周りの多くの人がそれを私と同じように知覚しているのだから、それは確かに存在している」というものだろう。しかし、人の脳の働きは一筋縄ではいかない。「そこに生じた知覚が正当なものであることを別の知覚を作って補強する」くらいのことは瞬時にやってのける。だとすると、「私」と同じものを感じているという周りの人たちは、その「私」の感覚を正当化するために「私」(の脳)が作り出した幻覚でないと、果たして言い切れるのだろうか?
量子論では「意識が世界に影響を及ぼしている」と説くが、量子論など持ち出すまでもなく、この世界は我々一人ひとりの意識に浮かぶ影のようなものでしかないのだ。
それとは別に、幻覚はまた人のカラダの持つ感動的なまでの精妙さを改めて感じさせるものでもある。
第1章「静かな群衆」ではCBSの患者に生じる幻覚について述べられている。CBSの患者は(少なくとも部分的に)一次的な知覚世界を失うことによって幻覚を見るようになるというが、次の下りを読んでいて私は泣きそうになってしまった。
デイヴィッド・スチュワートは自分の幻覚を「とにかく友好的」と言い、自分の目がこう言っているのだと想像している。「がっかりさせてごめん。失明が楽しくないことはわかっているから、このちょっとした症候群、目の見える最終章のようなものを企画したよ。たいしたものではないけど、私たちにできる精いっぱいなんだ」。
元カミさんの見たものが、こうした幻覚の類だったのかどうか私には分からない。全てがこれで説明がつくわけでもないだろう。ただ、ネットなどに溢れる不可思議な神秘体験、霊的体験のほとんどは、脳が見せるこうした幻覚の一種だと考えられる。
けれども、幻覚だから価値がないというわけではない。幻覚を通じて脳と体が発する声を感じ、それに感謝することができるなら、それは例えようのない価値を持つものだから。
「いつかまたここでね」
さよならの声がいつまでも響いて 背中を押すこともなく僕らを繋いだ
曖昧なことも単純なことも みんな色付いていく
言葉にならない このくすぶった気持ち抱きしめていたいよ
曖昧なことも単純なことも みんな同じだって
僕らの歌 この胸の真ん中で 花を咲かせている (「サークルゲーム」より)
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