研修医の鈴木です。今日は3月11日ですね。私はコードブルーの対応で黙祷とかしている場合ではありませんでした。
東日本大震災から早いもので8年が経過しました。
私は相馬市磯部地区の出身で産まれてから2011年3月11日まで家族とともに生活していました。自宅のすぐ近くが海で波風の音を聞きながら日々を過ごしていました。子供の時は夏になると海水浴によく行ったのを覚えています。
8年前の3月11日、私は相馬高校を卒業して福島医大入学を控えていた時でした。相馬高校からの帰り道、近くのドラッグストアに寄ったときに地震が発生致しました。今までにない大きな地震であり、津波警報も発令された為、その日は自宅に帰らず、親戚の家に避難しました。もしあの時ドラッグストアに寄らずにまっすぐ帰っていたらもはやこの世にいなかったかもしれません。所持品はほとんどありませんでしたが幸いにも命は助かりました。数日後、磯部地区に行きましたが、そこはもはや私の知る故郷ではなくなっていました。自宅があった場所は地面がえぐられて海になっていて、思い出となるものも何一つ残っていませんでした。故郷が失われたことをその時初めて理解しました。頭の中に浮かぶ磯部の風景はもう二度とこの目で見ることはできないのです。
安否情報を確認すると近所の人や知人の名前がありましたが、あまりに突然の出来事で何も実感がなく、ただ唖然とするばかりでした。ついこの間まで私が医大に合格して喜んでくれた人達が一瞬にして亡くなってしまったことに対して理解が追いついてないようなそんな感覚でした。
あれから6年が過ぎて初期研修医となり相馬の地に戻り、働かせて頂きました。初めの頃は何もわからず、全く役に立たない自分に対して思い悩む日々でしたが、多くのことを学ばせて頂きました。何か少しでも自分にできることはないかと自分なりに考えながら勤務しました。私がこの公立相馬病院で初期研修医として何か足跡を一つでも残せたら良かったのですが、自分の力不足ばかりが目立つ研修だったかもしれません。
ただ、この相馬の地で自分がなりたいと思える医師像を見い出すことができたので指導医の先生方に対して心から感謝しています。震災で犠牲となってしまった方々の分まで日々精進していきます。
東日本大震災から早いもので8年が経過しました。
私は相馬市磯部地区の出身で産まれてから2011年3月11日まで家族とともに生活していました。自宅のすぐ近くが海で波風の音を聞きながら日々を過ごしていました。子供の時は夏になると海水浴によく行ったのを覚えています。
8年前の3月11日、私は相馬高校を卒業して福島医大入学を控えていた時でした。相馬高校からの帰り道、近くのドラッグストアに寄ったときに地震が発生致しました。今までにない大きな地震であり、津波警報も発令された為、その日は自宅に帰らず、親戚の家に避難しました。もしあの時ドラッグストアに寄らずにまっすぐ帰っていたらもはやこの世にいなかったかもしれません。所持品はほとんどありませんでしたが幸いにも命は助かりました。数日後、磯部地区に行きましたが、そこはもはや私の知る故郷ではなくなっていました。自宅があった場所は地面がえぐられて海になっていて、思い出となるものも何一つ残っていませんでした。故郷が失われたことをその時初めて理解しました。頭の中に浮かぶ磯部の風景はもう二度とこの目で見ることはできないのです。
安否情報を確認すると近所の人や知人の名前がありましたが、あまりに突然の出来事で何も実感がなく、ただ唖然とするばかりでした。ついこの間まで私が医大に合格して喜んでくれた人達が一瞬にして亡くなってしまったことに対して理解が追いついてないようなそんな感覚でした。
あれから6年が過ぎて初期研修医となり相馬の地に戻り、働かせて頂きました。初めの頃は何もわからず、全く役に立たない自分に対して思い悩む日々でしたが、多くのことを学ばせて頂きました。何か少しでも自分にできることはないかと自分なりに考えながら勤務しました。私がこの公立相馬病院で初期研修医として何か足跡を一つでも残せたら良かったのですが、自分の力不足ばかりが目立つ研修だったかもしれません。
ただ、この相馬の地で自分がなりたいと思える医師像を見い出すことができたので指導医の先生方に対して心から感謝しています。震災で犠牲となってしまった方々の分まで日々精進していきます。