仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

「大和王朝終焉の秘密」 水野祐

2007-04-25 14:12:54 | 讀書録(歴史)
「大和王朝終焉の秘密―継体朝統一から蘇我独裁体制の興亡史!」 水野祐
お薦め度:☆☆☆ /
2007年4月8日讀了


著者は「三王朝交替説」を唱へる水野祐氏。
肝腎の「三王朝交替説」については、本書の前作に相當する「大和王朝成立の秘密」といふ本を讀んだはうが良いやうだが、見つからない。
しかたないので、後篇に當る本書を讀んでみた。

著者の立場は、雄略天皇で、仁徳王朝は斷絶するといふもの。
清寧天皇は實在しないし、顯宗・仁賢・武烈も實在しない。
雄略亡き後は飯豐皇女が即位してゐたとする。
飯豐皇女のあとは、繼體天皇が新たな王朝を開始し、安閑天皇のあとは、宣化は實在せず、欽明朝へと續く。
欽明朝からは、すべての天皇は實在し、蘇我氏の專横へと續く。

讀んでゐて、私の理解力はついていけなかつた。
實在しないと判斷する根據はそれぞれに語られてゐるのだが、いまひとつピンとこない。
また、そんな實在しない天皇を創作する必要性については、さらに理解できなかつた。

繼體崩御の年について、日本書紀本文では、「百濟本紀」を引用して、繼體25年辛亥の年(531年)としてゐる。
著者は、これを「百濟本紀」の誤りだとしてゐる。
すなはち、繼體の崩御ではなく、崇峻天皇の崩年と間違へたのだとするのだ。
しかし、「記・紀」ともに崇峻の崩年は壬子年(592年)としてゐるのだ。
辛亥年とは書かれてゐない。
これを、著者は獨自の理屈により、崇峻天皇の崩年は辛亥年(591年)だとするのである。
さうしたうへで、同じ「辛亥」年なので、「百濟本紀」が崇峻を繼體と間違へたのだらうと主張してゐる。
かういふ理屈が通るのなら、なんでもアリ、といふ氣がしてしまふ。

複雜な内容を薄い本に纏めてゐるのでわかりにくいのかもしれないが、私には理解が及ばなかつた。
私の頭の調子がよくない所爲かも知れないが・・・
ついでに、「大和王朝成立の秘密」といふ本も讀んでみたいものだ。
そこには、いかなる理屈が展開されてゐるのだらうか。



大和王朝終焉の秘密―継体朝統一から蘇我独裁体制の興亡史!

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2 コメント

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仙丈さん、コメント有難うございます (hamatre)
2007-04-25 17:18:32
hamatreです。
コメント頂き有難うございます。
吉野さんの名前を見て、直ぐ思い出して頂くとは、とても嬉しいです。
さすが元山岳部ですね。
このような心のこもったコメントは、さらに滅茶苦茶嬉しくなります。
感謝!感謝!

「山靴の音」じぶんも同じく何度も読みました。
いいもんですね~。
それと年数も同じ位で約40年でした。
まちっがって30年と書いちゃったです。
確か、二十歳前後の時でしたので、、、

これからも仲良くさせて下さい。
どうぞ宜しく。

仙丈さんのブログ拝見しました。
2004年から継続され中身が非常に濃く、敬服しました。
これからも拝見したいので、リンクしてみるようにします。
返信する
芳野滿彦 (仙丈)
2007-04-25 18:04:49
hamatreさん

私にとつて、芳野滿彦さんといへば、日本人のマッターホルン北壁初登頂者といふより、むしろ「山靴の音」でした。
その後、山にも登るやうになり、何度か讀み返したりもしました。
自分の若い頃を思ひ出し、また讀んでみたくなりました。

>これからも仲良くさせて下さい。
>どうぞ宜しく。

こちらこそ、よろしくお願ひします。
とはいへ、最近はタイガースの試合と、愛犬の寫眞しか載せてゐないやうな状態ですけど・・・

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