【1980年】(浪人)
Hの家。明石天文台 プラネタリウム
18日は、第一志望大に合格、アパートを搜して契約。
19日は、Hに電話し合格報告、摩耶山につれて行つて貰つた。
そして、この日はHのお宅にお邪魔した。
Hとは小學校が一緒だつたから、授業參觀などで彼女のご兩親の顏はなんとなく覺えてゐる。
でも話をしたことはなかつたし、なにしろ子供の時のこと、相手は私の顏すら覺えてゐないだらう。
そもそも、女の子の家にお邪魔するなんて、私の人生でおそらく初めてのこと。
お宅にお邪魔することになつて、私はどれだけ緊張しナーヴァスになつたことか。
相手をどう呼んだらいいのだらう、なんて。
「お父さん」
「君にお父さんなんて呼ばれる筋合ひはない!」
とか?
最寄驛までHが出迎へてくれ、バスでお宅へ。
お父上はゴルフの練習に出られてゐて、お母上が迎へて下さつた。
折しもひる時を廻つた頃だつたので、神戸南京町の 「老祥記」 のブタ饅をご馳走になつた。
關東に住んでゐた私にとつて、もちろん初めて食べたものだが、とつても美味かつたのを覺えてゐる。
さうかうしてゐるうちに、お父上が歸つて來られた。
お母上とはまだ話すことも出來たが、お父上は口數が少なく、しかも共通の話題がない。
やがて、彼はTVでプロ野球のオープン戰を見始めた。
阪神ファンだとのことで、やうやく共通の話題が見つかつた。
ちやうど岡田が入團した年で、岡田の起用について話をしてくれた。
ところが、私には彼の關西弁がうまく聞き取れない。
いまのやうにTVをつけると關西弁が氾濫してゐるやうな時代ではなかつた。
なので、關西弁に慣れてゐない私には、關西ネイティヴの關西弁は言葉の違ひよりも、それ以前に發音やイントネーションの違ひで言葉そのものが聞き取れなかつたのである。
私自身、口數の多いはうではないので、沈默の時間が續く。
その沈默の重さにつぶされてしまひさうになる。
私の危機的状況を見てとつてか、Hが私を外に連れ出してくれた。
やれやれ、助かつた・・・といふのが正直な氣持ちだつた。
Hは明石の 天文科學館 に連れて行つてくれた。
日本標準時子午線の眞上に建てられたことで有名なところだ。
1年數ヵ月前まで天文學者になりたいと思つてゐた私にとつて、ここは一度は訪れたい場所であつた。
ここでプラネタリウムを見て、そのあと明石城趾(明石公園)まで足を伸ばした。
氣疲れのした訪問だつたが、お母上が「仙丈くん、また遊びに來てね」と云つてくれたのが救ひだつた。
【1981年】(1囘生)
御茶ノ水「穗高」 灰皿¥300
三省堂(地圖、本) 上野
あれ?
御茶ノ水の喫茶「穗高」にまた行つてゐる。
この年は 3月13日 にも行つてゐるのに。
もつとも、私は50歳になつた今でも、東京に行つた時は必ずと云つていいほど行つてゐるのだが。

「穗高」の灰皿。
これは 2005年に買つた もので、當時のものとは微妙にデザインが違ふのだが、おほむねこんな灰皿だつた。
三省堂で地圖と本を買つてゐる。
24日からC高山岳部の春山合宿にOBとして參加するので、そのための地圖を買つたのかもしれない。
ただ、那須連峰へは高3の時に行つてゐるので、地圖は持つてゐる筈。
いま念のため地圖を引つ張り出して確認したら、5萬分の1と2萬5千分の1の2枚があり、どうやら後者のはうをこの時に買つてゐるやうだ。
上野と書かれてゐるが、上野に行つた理由がわからない。
何しに行つたんだらう?
【1982年】(2囘生)
15:00~入塾テスト
17:00~授業
枚方の塾で生徒募集の入塾テストをしてゐる。
ただ、私の記憶では、テストで生徒をふるひ落したことはなかつたと思ふ。
入塾希望者の現在の學力を把握する意味だつたやうに思ふ。
手帳の後ろの方に塾の時間割が記されてゐた。
それによると、この年、土曜日には小5の理科と中2の英語を教へてゐたやうだ。
【1983年】(3囘生)
スヴィアトスラフ・テオフィロヴィッチ・リヒテル 誕生日 68歳
【1984年】(4囘生)
スヴィアトスラフ・テオフィロヴィッチ・リヒテル 誕生日 69歳
まあ、何と申しませうか。
それほどまでにリヒテルが好きだつた、といふことで。
Hの家。明石天文台 プラネタリウム
18日は、第一志望大に合格、アパートを搜して契約。
19日は、Hに電話し合格報告、摩耶山につれて行つて貰つた。
そして、この日はHのお宅にお邪魔した。
Hとは小學校が一緒だつたから、授業參觀などで彼女のご兩親の顏はなんとなく覺えてゐる。
でも話をしたことはなかつたし、なにしろ子供の時のこと、相手は私の顏すら覺えてゐないだらう。
そもそも、女の子の家にお邪魔するなんて、私の人生でおそらく初めてのこと。
お宅にお邪魔することになつて、私はどれだけ緊張しナーヴァスになつたことか。
相手をどう呼んだらいいのだらう、なんて。
「お父さん」
「君にお父さんなんて呼ばれる筋合ひはない!」
とか?
最寄驛までHが出迎へてくれ、バスでお宅へ。
お父上はゴルフの練習に出られてゐて、お母上が迎へて下さつた。
折しもひる時を廻つた頃だつたので、神戸南京町の 「老祥記」 のブタ饅をご馳走になつた。
關東に住んでゐた私にとつて、もちろん初めて食べたものだが、とつても美味かつたのを覺えてゐる。
さうかうしてゐるうちに、お父上が歸つて來られた。
お母上とはまだ話すことも出來たが、お父上は口數が少なく、しかも共通の話題がない。
やがて、彼はTVでプロ野球のオープン戰を見始めた。
阪神ファンだとのことで、やうやく共通の話題が見つかつた。
ちやうど岡田が入團した年で、岡田の起用について話をしてくれた。
ところが、私には彼の關西弁がうまく聞き取れない。
いまのやうにTVをつけると關西弁が氾濫してゐるやうな時代ではなかつた。
なので、關西弁に慣れてゐない私には、關西ネイティヴの關西弁は言葉の違ひよりも、それ以前に發音やイントネーションの違ひで言葉そのものが聞き取れなかつたのである。
私自身、口數の多いはうではないので、沈默の時間が續く。
その沈默の重さにつぶされてしまひさうになる。
私の危機的状況を見てとつてか、Hが私を外に連れ出してくれた。
やれやれ、助かつた・・・といふのが正直な氣持ちだつた。
Hは明石の 天文科學館 に連れて行つてくれた。
日本標準時子午線の眞上に建てられたことで有名なところだ。
1年數ヵ月前まで天文學者になりたいと思つてゐた私にとつて、ここは一度は訪れたい場所であつた。
ここでプラネタリウムを見て、そのあと明石城趾(明石公園)まで足を伸ばした。
氣疲れのした訪問だつたが、お母上が「仙丈くん、また遊びに來てね」と云つてくれたのが救ひだつた。
【1981年】(1囘生)
御茶ノ水「穗高」 灰皿¥300
三省堂(地圖、本) 上野
あれ?
御茶ノ水の喫茶「穗高」にまた行つてゐる。
この年は 3月13日 にも行つてゐるのに。
もつとも、私は50歳になつた今でも、東京に行つた時は必ずと云つていいほど行つてゐるのだが。

「穗高」の灰皿。
これは 2005年に買つた もので、當時のものとは微妙にデザインが違ふのだが、おほむねこんな灰皿だつた。
三省堂で地圖と本を買つてゐる。
24日からC高山岳部の春山合宿にOBとして參加するので、そのための地圖を買つたのかもしれない。
ただ、那須連峰へは高3の時に行つてゐるので、地圖は持つてゐる筈。
いま念のため地圖を引つ張り出して確認したら、5萬分の1と2萬5千分の1の2枚があり、どうやら後者のはうをこの時に買つてゐるやうだ。
上野と書かれてゐるが、上野に行つた理由がわからない。
何しに行つたんだらう?
【1982年】(2囘生)
15:00~入塾テスト
17:00~授業
枚方の塾で生徒募集の入塾テストをしてゐる。
ただ、私の記憶では、テストで生徒をふるひ落したことはなかつたと思ふ。
入塾希望者の現在の學力を把握する意味だつたやうに思ふ。
手帳の後ろの方に塾の時間割が記されてゐた。
それによると、この年、土曜日には小5の理科と中2の英語を教へてゐたやうだ。
【1983年】(3囘生)
スヴィアトスラフ・テオフィロヴィッチ・リヒテル 誕生日 68歳
【1984年】(4囘生)
スヴィアトスラフ・テオフィロヴィッチ・リヒテル 誕生日 69歳
まあ、何と申しませうか。
それほどまでにリヒテルが好きだつた、といふことで。
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