去年植えたセージの葉が
今年は勢いを増して 大きく育っている。
部屋のサボテン君も 色鮮やかなツヤツヤした葉と
可憐なピンクの花をひっきりなしに咲かしてくれた。
しおれかけて枯れそうなサボテン君は 僅かながらに成長してる。
わたしはある時期から 個人のイワレともいうべき情報を
チャネリングで教えてもらってた。
その難解な内容は 紐解くのにネットを活用する。
それは 古語文、地名なので どうしても単語や場所を調べる。
全体像は感じ取れるけど 確信を得るためでもある。
わたしにとって 現代版図書館
その調べ方は 単純な文字を探すわけではなくて
調べながら 直感と頭に浮かぶ閃きのような言葉から探し当てる。
すると関連性がドンドンヒットしてくる。
難解な時は数日かかってまとめ上げ 集約させて
もう一度確認する。
確実性が強くなってから 本人が繋がるべき場所を特定する。
そんな事をしながらも 少しずつ色々な法則が見えてくるので
また探究心がくすぐられる。
そうこうしてるうちに ある時 神という存在の関係に
疑問が湧いてきた。
とてもやるせない 虚無というか
私たち人間はなぜ報われないのか
片方では 非道な事をしても許され
片方では 報われない人が居る
お菓子作りをしながら
主と言う存在がいるのなら それはおかしい事だと
反抗的に「神は不完全だ」
「わたしはそんな世界を見たくない!もしわたしが間違ってるならわたしをこの世界から滅すればいい」と嘆いた。
前にも少し書いたけど
その瞬間 ごくたまにしか繋がらない存在の言葉が唐突に入った。
「あなたはよく耐えましたね、もう嘆かなくてもいいのですよ。」
その声を聞いて わたしは作ってる途中 号泣してしまった。
それも声を上げて・・・
おもわぬ労いの深い愛ある言葉だったからだ。
わたしは その場にくづれるような感覚を覚えた。
止めどもなくこぼれた涙は 罵倒した私の言葉と
とてつもない慈愛にみちた言葉とのわたしにしか感じ取れない感動だった。
それから後は 作業が出来ず車を走らせたのだけど
その存在は 車中ずっと質問や疑問に答えてくれた。
帰り道もずっと・・・およそ1時間以上ずっとずっと答えてくれた。
穏やかで 整然とした言葉 時にはユーモアのような返しや
比喩を使って判りやすく教えてくれた。
それでも私は ときおり意地悪な質問や
ふてぶてしい感じをえがくとみすかされて
ユーモアの混じった言葉で返される。
話した内容は あまりにも広範囲でひとつひとつ正確に覚えていない。
ただ一番印象に残った言葉が 前の日記で書いた
「ゴミは始めからゴミではない、だから貴方が見るモノすべてを
愛しなさい」
それはとても奥深く 世の中の汚れた心、恐れや怒りなど
人が忌嫌う事やモノもすべて愛する事。
わたしは小さい頃 処分されるような醜い金魚を
毎日のように金魚屋さんへ買いに行った心を忘れてた。
なぜ醜いから見捨てられるんだろうと疑問に思った頃の事を。
それを陰で応援してくれたのは 祖父だった。
毎日買っているうち 残り少なくなったおこずかいを知り
何も聞かずに 幾度も金魚のお駄賃をくれた祖父。
その金魚は 池に放され大きく見事な金魚に育った事を。
そして その金魚たちは数百匹の子供を孵していた事を。
だから 人が敬遠する事やモノにもう一度
「愛」を持って向かおうと決めたら
人それぞれの悩みや心配事
一般に言う「祟り」と呼ばれるエネルギーが原因らしき人達とつながる事が多くなった。
「祟り」は「福」に必ず変わる事は知っている。
「短所」が「長所」に変わるのも同じ仕組み
だから わたし流個人情報から 確実な探究をしている。
実例は すこしずつ成功し始めて来た。
みんな 幸せになる権利はあるのだから・・・