私が、小学校2年生(昭和33年)だったと思います。 「中村」を名指しする“歌謡曲”が 流行りました。 歌手「若原 一郎」が歌う「 お~い 中村君 」です。 ♪ お~い 中村君~ちょいと待ちたまえ~いかに新婚ほやほやだとて~伝書鳩ではあるまいものを・・・たまに付き合え~いいじゃないか中村君 ♪ 私にとって、とても嫌な“流行歌”でした。
今思うに 昭和 33年は、1万円札が初めて流通した年です。 それまでの最高額紙幣は、5000円でした。 戦後とは言え、“朝鮮戦争特需”で急激に景気が良くなり、 世の中が多少浮かれた時代だったのでしょうか? 流行歌「 お~い 中村君 」は、歌詞も楽曲もお粗末でしたが、不思議なほど 流行りました!
私にとって、大変迷惑な歌謡曲でした。 特に「新婚ほやほや」のフレーズは嫌でした。 「どうして“中村”だったのか」 当時 日本に多い苗字は、11位が「中村」でした。 「佐藤」とか「鈴木」の方が、良かったのではないか? 日本中の(小中学生)「中村」は、皆が迷惑していたと思います!
子供達に“冷やかされる”のなら我慢できますが、大人に“からかわれる”のは辛かった。 その大人が、小学校の“教頭”だから なおさら辛い。 校舎で擦れ違う度に「お~い中村君~ちょいと待ちたまえ」と、大声で呼び止められるのです。 いつの間にか、教頭恐怖症になりました。 今風に言えば、セクシャルハラスメントです。(笑)
あの頃は、知りませんでした。 強面の“教頭”が、どうして歌謡曲「お~い 中村君」を、私の前で歌ったのか? 事実を知ったのは、10年以上後の事です。 “教頭”は、母方の 叔父 の親友だったのです! 戦後 共に復員し、職業として“教師”を目指す間柄でした。 念願かなって、二人は同じ小学校(我が町)の教師になりました。 数年後 “叔父”は“結核”を罹患し、面会謝絶のサナトリューム(結核病棟)に隔離され、同僚の“教頭”は心配していたのです。 “セクハラ”だと思った“教頭”の「お~い 中村君」は、ある意味で励ましだったのかも知れません? 「叔父さん(友人)を よろしく頼む」と! 残念ながら“叔父”は、4年後に亡くなりました。(享年 34歳)
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今月(16日) 父方の“大叔父”が、95歳で亡くなりました。 死因は“誤嚥性肺炎”で 呆気ない最期でしたが、死ぬ寸前までボケる事なく元気した。 正に“大往生”と言えます。 その“大叔父”は、結核で亡くなった“叔父”の遠縁であり友人でした。 同じ時代・同じ町に生まれ、戦争も経験しています。 運命は、皮肉なものです。 母方の“叔父”と 父方の“大叔父”の人生は、3倍近く(約 60年)の隔たりがあるのです。 長生きが「良いのか 悪いのか」分かりません。 「太く短い人生」「細く長い人生」 いかに社会貢献し 有名人であっても、死んでしまえば“お仕舞い”です。 “葬儀”で大勢に見送られても、火葬され“骨”になった時、享年〇〇年の“戒名”(位牌)しか残りません。 魂は、唯一関係者の心に宿るものだと思います! 「千の風になって」