裏面打法は単板で

10mmの単板に両面ラバーを貼っている男が,卓球についてまとめます。

周防のテクニシャン

2020-04-27 11:10:22 | 選手
いつもよりも早く起きてしまい,寝ぼけ眼で更新中

今日もまた偶然に知って選手をご紹介

今回紹介するのは金子司

1980年9月21日に山口県に生まれ,出身の高校も県内の公立高校と,生粋の周防っ子


実際のプレーの様子。

今や数少ないペンドライブ型だが,何よりもバック系の技術におけるテクニシャンぶりが特徴的。

バックショートによる堅実な攻守に加え,自由自在なコース取りで巧みに相手を翻弄している。

そのため,通常のドライブマンとは違ってあまり下がらず,前陣を中心にした速攻色の濃いポジショニングが目立つ。

先に触れたショートから発展して,バック前のストップに対しても攻撃することが出来る。

それもパワーで一発で得点すると言うよりかは,ほんの少しの軽いタッチで相手の意表を突くような感じ

また,前陣でも旧来のバックハンドを振ったりするなど,バックの弱さをほとんど感じさせない器用さは天下一品だ

現在では地元・山口県内でクラブチームの指導者として活動中。

では,また

西九州のペンドラ宣教師

2020-04-25 17:52:43 | 選手
少しずつではあるがネタが貯まって来たので,忘れないうちに一気に紹介

今回紹介するのは,荒木和敬

長崎県出身のペンホルダードライブ型で,あの宮崎義仁氏とは同郷に当たる

中学に入ってから卓球を始め,福岡の名門・柳川高校を経て専修大学に進み,その後実業団ではラララと言うチームに属す。

実業団にいた当時は,あの偉関晴光とも一緒に過ごしていたそうだ。



元々は片面ペンで活躍していたが,そんな彼がスタイルを変えるきっかけとなったのは,40代に入ってから。

ある年の全日本マスターズの決勝トーナメントに出れはしたものの,わりと早々に敗退してしまう。

それから程なくして,裏面の技術を練習したところ,先述の幅が圧倒的に広がり,翌年からは表彰台に現れるほどに成長

以来,年をとっても裏面を触れることの楽しさを伝えるべく,上の動画の様にYouTubeでも技術指導を配信している他,最近では卓球王国で連載を開始している。

実際に動画を見ていても,グリップから片面ペンとの戦い方の差まで,分かりやすく説明しておられる。

現在は久留米のとある卓球クラブで指導者として活動されているとの事。

ソースはこちら

では,また

速攻の尖兵

2020-04-24 23:00:13 | 選手
ちょっと最近更新が滞り気味なので,急ぎネタを投下しにかかることに

今回紹介するのは,田中卓也

右シェークフォア表ソフト,バック裏ソフトの前陣速攻型で,鋭いスマッシュ連打を持ち味としている。

日本人としては数少ないヤサカのアドバイザリースタッフでもあり,松下浩二と同様,プロの選手としてスーパーサーキットを転戦していた時期もあった。

そんな彼の選手生活のハイライトは,何と言ってもあの金擇洙に勝ったことであろう。


その実際の映像がこちら。

11点先取で尚且つサービスを腕で隠しているので,恐らく2001年か2002年頃かと思われる。

1ゲーム目は競り合いを制するものの,2ゲーム目ではバック系の決め球に当たりはずれが出たこともあって取り返される。

しかし3ゲーム目は一転,圧倒的なペースで金擇洙を引き離し,試合は第4ゲームへ。

そこでも勢いは変わらず,カウンタースマッシュを炸裂させ,激しい打撃戦も繰り広げて価値ある勝利を挙げた

シェークの表ソフト速攻型にとって,もはや教科書みたいと言っても過言ではないほどの試合だったと思う。

現在は岐阜県でとある卓球クラブのコーチとして後進の育成に力を注いでいる。

では,また

最強軍団のCrimson Pine

2020-04-19 17:15:26 | 選手
色々と忙しくしている間にネタが少しずつ貯まってきたので,ここから一気に放出していく

今日はかなり久々に選手紹介

今回紹介するのは丁松

1971年9月5日に上海に生まれ,戦型はフォア裏ソフト,バック表ソフトのカットマンで,90年代半ばを中心に活躍した

切れ味鋭いカットに加え,独特のしなるようなスイングのパワードライブを織り交ぜたスタイルが特徴的。


彼の実際のプレーを知るきっかけとなった動画がこちら。

高校生だった当時,まだYouTubeすらなかったその昔,動画フラッシュ王国と言うサイトで見て,初めてカットマンらしい粘り強さを目の当たりにして強く印象に残ったのを覚えている。


丁松自身のベストバウトの1つ,95年の世界卓球・カールソン戦。

この試合のために,丁松はナショナルチーム内で秘密兵器として育て上げられ,団体決勝では3番に配置される。

その持ち前のアグレッシブさと鉄壁の守備でカールソンを最後まで幻惑し,87年ニューデリー大会以来の団体優勝に繋げる貴重な勝利を挙げた

97年のマンチェスター大会を最後にナショナルチームからは引退し,その後はドイツを中心にヨーロッパのリーグ戦を転戦。

2003年には中国に戻り,2007年まで中国スーパーリーグでプレーした。

また,スーパーリーグ参戦中の2006年に上海交通大学に進学,人事労務管理を学んだ。

2009年6月には学士号を取得し,コーチとしても活動を開始した。

現在では上海市の西南にある閔行区に卓球クラブを設立し,後進の育成に当たっているそうだ。

ソースはこちらこちら

では,また