スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

天誅組の足跡を訪ねて ⑫

2010-01-21 10:28:42 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

<天ノ川峠(天辻峠)の本陣>


▲国道168号線 西吉野トンネルの手前から振り返れば・・・


▲天辻の手前です。右に行けば和歌山県高野町冨貴です。


天誅組の50名は、国道168号線を南に進み天辻峠へ向かいます。

もちろん、今日のような広い道でなく、馬が一頭通れるだけの狭くて険しい道だったのだろう。
当時の天辻峠は標高800m(現・天辻トンネルは標高647m。大正時代に標高750m付近に短いトンネル完成。昭和34年にも標高700mに旧トンネル完成。更にその下に五新鉄道<五條-新宮>のトンネルがあるが今は廃線。4本もトンネルがある峠なのです。トンネル道が長くなり崖崩れも少なくなりました。)に位置し、熊野方面と高野山に向かう道がここで交差し、宿や問屋が100軒ほどあってかなり賑やかだったようだ。


▲大塔橋を渡ると坂本村です。左に行けば県道53号線で天川村へ。右側の168号線で十津川に向かいます。この手前の高台に天辻峠本陣跡があります。


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20日の夜8時頃、坂本村に到着。
ここに本陣を構える予定であったが峠から350mも低いところでスリ鉢の底に位置するため、見晴らしが悪い。現在の坂本のほとんどは既に猿谷ダムの底に沈んでいるのです。





▲吉野郡大塔村・国道168号線の天辻峠に立てられた「維新胎動の地」の碑。


▲現在の国道168号線に立てられた「天の川本陣跡」を示す看板。これより急勾配の坂道を登ると10数軒の民家があります。


21日、峠の上の鶴屋治兵衛の屋敷を本陣とした。
この場所は周りが見渡せ、背面は大峰・高野の山が屏風のようになっている。敵陣が攻めてきても見下ろせる好位置なのです。


▲攻めてくる敵を見下ろせる絶好の場所に本陣を構えたのです。本陣跡に登る途中からの光景です。


▲維新歴史公園奥側から見たところ。右側のネットで囲まれた場所に碑が建てられている。
明治から昭和にかけて天辻小学校があったところとか。敷地の一角には「天辻延命地蔵尊」があり、その隣に石碑が立ち並んでいる。


▲「天誅組本陣遺跡」の石碑。



▲天誅組に屋敷を提供し全面的に協力した「鶴屋治兵衛翁」の碑。


▲「野崎主計」の句碑。
『 討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国のみたみなりせば  野崎主計 』

先に、吉村寅太郎と保母健は、乾十郎の案内で十津川郷に出向いていた。郷士兵を集めるためである。
この十津川郷の勤皇の歴史は、神武天皇東征軍の先鋒を務めたことに始まるとされ、たえず天皇の行幸の御用を務めてきており、壬申の乱の功績で租税を免除された謂れがある。

そんな郷士は、既に100名の主だったものが外夷対応として京に出ており、更に天誅組が大和入りする数日前にも100名が上京していたのである。
そんな中で、兵を集めるとは・・・。
そのような状況下であったが、かねてから十津川郷とは深いつながりを持っていた乾十郎は、川津村・庄屋 野崎主計(かずえ)を吉村に引き合わせた。

吉村の話と人柄に、野崎主計は田良原村の深瀬繁理などに連絡し郷をあげて協力することになり、15歳から50歳までの男子のすべてを24日に天ノ川辻本陣参集の連絡を取ったのだ。翌25日朝までには全郷土から約1200人が集まったという。


1 コメント

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Unknown (よりりん)
2010-01-21 16:34:59
へ~、こんな碑がたってるんですね!
天川村までは、おととし行きましたが、その先は未知の世界です(苦笑)。
賀名生も梅林しかいったことありません・・・汗。
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