<高取攻め・・・でも、失敗。>
旧暦8月25日(現在の10月7日)早朝、1200名の十津川郷士を得て、それまでの天辻峠の固守を一変、高取城の奪取に向けて全軍に出陣を命じたのです。
ところが、この兵たちにはあまりにも過酷です。
前日、十津川奥地から駆けつけた兵は、夜を徹して約50kmの山路を歩いて来たのに、更に戦えとは・・・酷です。
公家育ちと戦を知らぬ幹部に振り回されるのです。
今でこそ、アスファルト道路を車で飛ばせるが、当時は人が歩くのがやっとという山路。山で育った十津川郷士といえど、体力の消耗は凄かったでしょうね。
それでも、鉄砲や刀を持たない兵には、途中の竹やぶで竹槍を作らせます。五條に着いたのは夕方です。
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▲十津川・天ノ川辻本陣から北に向かって五條陣へ・・・。険しい山路を進みます。十津川郷士は連日、歩き通しで、疲労困憊状態です。
既に郡山藩が御所まで来ていることを聞いて、五條陣で休むことなく忠光本隊は高取城へ。吉村寅太郎隊は、郡山勢を迎え撃つため御所に向かいます。
またも、休憩なしの進軍です。
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▲その当時の難攻不落の高取城です。日本三大山城のひとつです。
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▲現在の高取城は石垣を残すのみ。
忠光は、藤本・松本の二総裁の『十津川郷士の疲労度を考え進軍を自重すべき』との訴えを退け、那須信吾など若手の意見を取りいれ、高取城の夜襲を命じたのです。
翌朝、8月26日朝6時。
高取藩は、高取城から西5kmに位置する土佐街道(御所・五條と高取城下の土佐町と結ぶ街道)の高台で待ち伏せます。
この高台とは、現・高取町役場(藩の調練場)と国府神社の二つの台地で、大砲4門と鉄砲隊、槍隊で組み、また現高取小学校にも遊撃隊が、更に予備隊などが城下に控えます。
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▲鳥ケ峰の古戦場跡地(現在は高取町役場)には、石碑が建っています。
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▲鳥ケ峰の古戦場跡地(現在は高取町役場)は、高台になっており、左側から来る天誅組に対して大砲を打ち込んだのです。
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▲正面に見える高台(高取小学校)にも遊撃隊がいたのでしょう。
天誅組の1200名に対し、高取藩は200名余りの陣営。
高台に陣を張った高取藩は、大砲や鉄砲・・・そして領内の農民に旗やホラ貝、陣太鼓を鳴らし、時の声を上げ・・・大軍がいることを思わせます。十津川郷士たちは逃げ惑うばかりです。戦闘2時間、天誅組は完全に敗退したのです。
負けた天誅組の死者は13名。生け捕り58名とか。対する高取藩の犠牲者は偵察に来て討たれた西島源左衛門と二人が負傷したのみ。
天誅組の完敗です。
不眠不休で戦い疲労困憊。武器も少なく、松の木を刳り貫いた大砲では、松ヤニが詰まって弾が飛び出しません。これでは勝負になりません。味方もガッカリで、戦意喪失です。
やはり、戦を知らぬ忠光公の失敗で、撤退しかなかったのです。
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▲高取町リベルテホール玄関横に置いてある大砲(レプリカ)。高取藩が使っていたものかな? ブリキトースと説明されてあった。でも、こんな短筒で3貫目(11.25kg)の玉を500mも飛ばせるのか?まぁ、天誅組の松の木をくりぬいて作った大砲よりも威力はあるだろうが・・・。
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▲ちゃんと説明されておりました。「ブリキトース砲」なんですね。
<吉村寅太郎・・・味方の鉄砲に撃たれ負傷!>
一方の吉村寅太郎、中垣健太郎、小川佐吉などの別働隊は、御所方面を探索していたが、五條への帰途、本隊が高取藩に惨敗したことを知り、20数名の決死隊を組み高取城への夜襲を目論むが、これも途中で見つかり戦闘に・・・この時、吉村寅太郎自身が、味方の鉄砲に撃たれて負傷し、何とか逃げ延びることに・・・・。
吉村の負傷は、わき腹とも太ももとも言われているが・・・ハッキリ分からない。
吉村は、翌、8月27日の正午頃、突撃前に休憩していた現・御所市重阪(へいさか)の庄屋、西尾清右衛門宅にたどり着き、「榎本住」という女医さんの手当てを受ける。
この時、世話になった西尾家に吉村寅太郎自筆の血染めの肌襦袢、天誅組志士連名の巻紙を同家に託したそうだ。
その肌襦袢には『尽忠 報国 土浪士 吉村重郷』と書かれている。
高取城攻略にことごとく失敗した天誅組は、再び天ノ川辻(天辻)本陣に戻ることに・・・。
負傷の吉村は重阪より五條に戻り、翌日、天辻本陣に戻るが、既に忠光と二人の総裁などの本隊は、天辻より16km南の長殿村・長泉寺に本陣を移動していたのだ。
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▲8月28日、本陣が置かれた十津川・長殿村の長泉寺跡。今は、何も残っておらず、石碑がこの地を示している。
和歌山藩、彦根藩、郡山藩、高野山勢など幕軍の包囲網が進んできます。特に和歌山藩の600人は、五條村の1km西南の二見村まで来ています。
忠光公は、吉村に『諸藩の手が及ばぬうちに、新宮に至り、船で長州に向かおう。すぐ本隊に合流せよ』と伝えるものの、戻るのも待たずに逃げるように長殿へ・・・これには、吉村らも怒ります。
吉村らは、あくまで天辻峠で戦うことを決意し、天辻峠にとどまります。
そして、吉村は、橋本若狭、そして水郡善之祐ら河内勢を中心に隊士40名他、150名ほどで広橋峠、栃原岳、樺の木峠に土で盛り上げた小さな砦(土塁)を築き、防御を固めるのです。
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▲樺の木峠に向かう途中の栃原より見渡すと、眼下に下市、大淀が見えます。
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▲樺の木峠の説明板がありました。すぐ近くで道路工事をしているため、土埃で汚れております。工事が終われば綺麗に拭いて欲しいものです。
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▲樺の木峠です。下市方面と十津川方面を結ぶ十日市街道(下市宗檜街道)の難所として行き交う人々を迎える茶屋が数軒あったのですが・・・9月10日の天誅組の戦で、茶屋は焼失し、塹壕が残っていることを伝えています。
今は近くに民家が1軒だけ建っています。
8月30日、本隊の忠光らは、長殿村から更に南の風屋村の福寿院(今は風屋ダムの湖底)へ移陣します。
この時、津藩兵(藤堂勢)は五條に、郡山藩兵は下市に迫っているのです。
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▲風屋本陣跡の碑です。湖底になってしまった福寿院の本陣跡石碑は、今は老人センター前に建っていました。
旧暦8月25日(現在の10月7日)早朝、1200名の十津川郷士を得て、それまでの天辻峠の固守を一変、高取城の奪取に向けて全軍に出陣を命じたのです。
ところが、この兵たちにはあまりにも過酷です。
前日、十津川奥地から駆けつけた兵は、夜を徹して約50kmの山路を歩いて来たのに、更に戦えとは・・・酷です。
公家育ちと戦を知らぬ幹部に振り回されるのです。
今でこそ、アスファルト道路を車で飛ばせるが、当時は人が歩くのがやっとという山路。山で育った十津川郷士といえど、体力の消耗は凄かったでしょうね。
それでも、鉄砲や刀を持たない兵には、途中の竹やぶで竹槍を作らせます。五條に着いたのは夕方です。
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▲十津川・天ノ川辻本陣から北に向かって五條陣へ・・・。険しい山路を進みます。十津川郷士は連日、歩き通しで、疲労困憊状態です。
既に郡山藩が御所まで来ていることを聞いて、五條陣で休むことなく忠光本隊は高取城へ。吉村寅太郎隊は、郡山勢を迎え撃つため御所に向かいます。
またも、休憩なしの進軍です。
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▲その当時の難攻不落の高取城です。日本三大山城のひとつです。
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▲現在の高取城は石垣を残すのみ。
忠光は、藤本・松本の二総裁の『十津川郷士の疲労度を考え進軍を自重すべき』との訴えを退け、那須信吾など若手の意見を取りいれ、高取城の夜襲を命じたのです。
翌朝、8月26日朝6時。
高取藩は、高取城から西5kmに位置する土佐街道(御所・五條と高取城下の土佐町と結ぶ街道)の高台で待ち伏せます。
この高台とは、現・高取町役場(藩の調練場)と国府神社の二つの台地で、大砲4門と鉄砲隊、槍隊で組み、また現高取小学校にも遊撃隊が、更に予備隊などが城下に控えます。
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▲鳥ケ峰の古戦場跡地(現在は高取町役場)には、石碑が建っています。
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▲鳥ケ峰の古戦場跡地(現在は高取町役場)は、高台になっており、左側から来る天誅組に対して大砲を打ち込んだのです。
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▲正面に見える高台(高取小学校)にも遊撃隊がいたのでしょう。
天誅組の1200名に対し、高取藩は200名余りの陣営。
高台に陣を張った高取藩は、大砲や鉄砲・・・そして領内の農民に旗やホラ貝、陣太鼓を鳴らし、時の声を上げ・・・大軍がいることを思わせます。十津川郷士たちは逃げ惑うばかりです。戦闘2時間、天誅組は完全に敗退したのです。
負けた天誅組の死者は13名。生け捕り58名とか。対する高取藩の犠牲者は偵察に来て討たれた西島源左衛門と二人が負傷したのみ。
天誅組の完敗です。
不眠不休で戦い疲労困憊。武器も少なく、松の木を刳り貫いた大砲では、松ヤニが詰まって弾が飛び出しません。これでは勝負になりません。味方もガッカリで、戦意喪失です。
やはり、戦を知らぬ忠光公の失敗で、撤退しかなかったのです。
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▲高取町リベルテホール玄関横に置いてある大砲(レプリカ)。高取藩が使っていたものかな? ブリキトースと説明されてあった。でも、こんな短筒で3貫目(11.25kg)の玉を500mも飛ばせるのか?まぁ、天誅組の松の木をくりぬいて作った大砲よりも威力はあるだろうが・・・。
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▲ちゃんと説明されておりました。「ブリキトース砲」なんですね。
<吉村寅太郎・・・味方の鉄砲に撃たれ負傷!>
一方の吉村寅太郎、中垣健太郎、小川佐吉などの別働隊は、御所方面を探索していたが、五條への帰途、本隊が高取藩に惨敗したことを知り、20数名の決死隊を組み高取城への夜襲を目論むが、これも途中で見つかり戦闘に・・・この時、吉村寅太郎自身が、味方の鉄砲に撃たれて負傷し、何とか逃げ延びることに・・・・。
吉村の負傷は、わき腹とも太ももとも言われているが・・・ハッキリ分からない。
吉村は、翌、8月27日の正午頃、突撃前に休憩していた現・御所市重阪(へいさか)の庄屋、西尾清右衛門宅にたどり着き、「榎本住」という女医さんの手当てを受ける。
この時、世話になった西尾家に吉村寅太郎自筆の血染めの肌襦袢、天誅組志士連名の巻紙を同家に託したそうだ。
その肌襦袢には『尽忠 報国 土浪士 吉村重郷』と書かれている。
高取城攻略にことごとく失敗した天誅組は、再び天ノ川辻(天辻)本陣に戻ることに・・・。
負傷の吉村は重阪より五條に戻り、翌日、天辻本陣に戻るが、既に忠光と二人の総裁などの本隊は、天辻より16km南の長殿村・長泉寺に本陣を移動していたのだ。
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▲8月28日、本陣が置かれた十津川・長殿村の長泉寺跡。今は、何も残っておらず、石碑がこの地を示している。
和歌山藩、彦根藩、郡山藩、高野山勢など幕軍の包囲網が進んできます。特に和歌山藩の600人は、五條村の1km西南の二見村まで来ています。
忠光公は、吉村に『諸藩の手が及ばぬうちに、新宮に至り、船で長州に向かおう。すぐ本隊に合流せよ』と伝えるものの、戻るのも待たずに逃げるように長殿へ・・・これには、吉村らも怒ります。
吉村らは、あくまで天辻峠で戦うことを決意し、天辻峠にとどまります。
そして、吉村は、橋本若狭、そして水郡善之祐ら河内勢を中心に隊士40名他、150名ほどで広橋峠、栃原岳、樺の木峠に土で盛り上げた小さな砦(土塁)を築き、防御を固めるのです。
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▲樺の木峠に向かう途中の栃原より見渡すと、眼下に下市、大淀が見えます。
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▲樺の木峠の説明板がありました。すぐ近くで道路工事をしているため、土埃で汚れております。工事が終われば綺麗に拭いて欲しいものです。
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▲樺の木峠です。下市方面と十津川方面を結ぶ十日市街道(下市宗檜街道)の難所として行き交う人々を迎える茶屋が数軒あったのですが・・・9月10日の天誅組の戦で、茶屋は焼失し、塹壕が残っていることを伝えています。
今は近くに民家が1軒だけ建っています。
8月30日、本隊の忠光らは、長殿村から更に南の風屋村の福寿院(今は風屋ダムの湖底)へ移陣します。
この時、津藩兵(藤堂勢)は五條に、郡山藩兵は下市に迫っているのです。
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▲風屋本陣跡の碑です。湖底になってしまった福寿院の本陣跡石碑は、今は老人センター前に建っていました。
届くと思われます。しかし松をくり貫いて作った大砲は2、3回
以上は自爆してしまうので使えなくなるでしょうね。