伯母峯峠越えて鷲家口へ・・・
9月23日早朝、上北山村白川郷を出発する予定であったが、「天誅組に加担すると首がはねられる」と村人から聞いた人足たちは恐れをなして逃亡。10人ほどの怪我人・病人を運ぶ駕籠や武具を運ぶ人足が足りません。止むを得ず荷物や武具を林泉寺に集め、本堂ごと焼却してしまいます。
白川郷から河合郷へ。河合から小橡(ことち)に向かうには、辻堂山(1308m)、伯母ケ峯(1262m)の尾根道を通り、夜を徹して歩き続けます。
▲大台ケ原道路から伯母ケ峰方面を見ると・・・凄い山並みが続きます。こんな山の中を歩き続けたのです。
23日深夜、伯母谷郷を先に出発した約30人が到着。駕籠に乗った怪我人などは1日遅れで到着。
休憩する間もなく、彦根藩が和田村(169号線の大迫ダム付近)まで迫っていると聞き、傷病者を村人に世話を頼み、忠光と元気な隊士達は彦根藩を迎え撃つべく出発するのです。
回復した隊士も後を追って参戦したが、高熱の小川佐吉と医者の乾十郎だけは、村人によって山中の洞窟(地元では天誅窟と呼ぶ)に匿われます。(二人は翌年正月まで世話になる。)
(この「天誅窟」は、国道169号線 現・新伯母峯トンネルの上辺りにあるのだろうか?かなりの絶壁にあって、近づけないと言われている。今回は行けそうもない。諦めよう。)<o:p></o:p>
9月24日、彦根勢を迎え撃つため和田村まで進んだが、敵の姿がなく、更に北側の武木村まで進んだ。
武木村庄屋・大西吉右衛門などの家で休憩。ここでの会食が最後となるのです。大西家では鰹節と勝栗をそえてもてなしたところ、『これは縁起がいい!』忠光は大いに喜んだという。この時の隊士は20余名ほどになっていた。
藤本鉄石は、お礼に短冊に和歌をしたため大西家に・・。これが鉄石の絶筆となったのです。
『雲をふみ岩をさくみしもののふの よろひの袖に紅葉かつちる』
武木村を後に、足ノ郷越(白屋岳の東麓)を通り鷲家口(現・東吉野村小川)へ。
藤本鉄石と松本奎堂は、本隊より1時間ほど遅れて武木村を出発。
松本奎堂は、いよいよ両目とも視力をなくし、駕籠に乗せられている。
▲松本奎堂は、このような駕籠にのっていたのだろうか?(十津川歴史民族資料館に現物が展示されていた)
でも、最期のほうでは竹の棒を通した「ムシロや麻袋」だったとも言われているが・・・。
▲この辺りは、彦根藩・和歌山藩の兵士が、天誅組を待ち伏せていたのです。(中央の奥が彦根藩本陣の油屋)
追討軍は、事前の情報で、鷲家口で待ち伏せています。
伴林らが通過した2日後の23日には、彦根藩の先発隊が、また和歌山藩も数百名の陣容で鷲家に移動させていたのです。
これら追討軍の様子を、雇われていた村人から聞きだし、天誅組決死隊が切り込んでいるスキに忠光ら本隊を逃がす作戦をとるのです。
▲伊勢街道道標・・・詳細は下記に記載されています。この道標の隣が、藤堂藩陣所跡なのです。
▲藤堂藩陣所となっていた油屋。今も残され、子孫が住んでおられます。
▲彦根藩脇陣所となっていた碇屋。ここも子孫が住んでおられます。
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