五條の志士・・・・「乾十郎」。そのうしろには「森田節斎」
天誅組(てんちゅうぐみ)を五條に手引きしたのは、大和・五條生まれの「乾十郎」です。
同じ五條の森田節斎(幕末の尊王攘夷論者で、交わった志士の中には吉田松陰もいた)や梅田雲濱に学問を学び、節斎の弟・仁庵には医学を学んだ人です。
大坂に出て町医者を開業。やがて五條に帰り五條代官所の近くで家を構え医者をするとともに、目薬・真珠円の製造販売もしていた。
その傍ら、代官所の動きを探り、天誅組に情報提供していたのです。
▲井上(いじょう)院跡に建つ「乾十郎の墓」。
櫻井寺から少し東に行き北側に上がり、JR和歌山線の踏み切りを越えて暫らく進むと「井上院跡」がありました。
真言宗のお寺で、井上内親王が幽閉されていた屋敷跡であったとか。この跡に「乾十郎」の墓がありました。明治7年にここに小学校が開校されて、積善舎と呼ばれていました。
天誅組が櫻井寺にて新政布告した立て札は、乾十郎が書いたものだとか。山門入り口の左右に「皇軍先鋒」と「御政府」。
この看板が評判になり、大勢の人が見に来たという。十郎も兄の子供を連れて見に行った。兄の子は看板を見るなり
「あれは、夕べおじさんが書いていたものやないか」
と、大声で言ったため、十郎はあわてて子供の尻をつねってその場から逃げたという。
この様子は、いろんな文献に紹介されているから、本当のことらしい。
また、医者であったため、十津川敗走の時、総裁・吉村寅太郎の弾丸摘出の手術を行い、熱病に苦しむ久留米藩士・小川佐吉に数十日付き添い看病したのです。
その後、大坂・吹田で名前を変え医業をしていたが、幕史に捕らえられ、京都六角獄につながれている。刑死となったのは、享年37歳であった。
▲森田節斎の頌徳碑。乾十郎や吉田松陰もこの森田節斎に師事していたのです。天誅組には加わらなかったものの、天誅組誕生の精神的な支えとなったのです。代官・鈴木源内の墓の場所を聞くため訪ねた五條消防署の前にこの碑がありました。
天誅組が向かった十津川方面に、早く行きたいのだが、先日の雪で国道が凍結の恐れがあったため、足止めをくらっております。
十津川の観光協会に電話を入れると、14日に降った雪は大塔村・天辻峠辺りで道路を通行止めにしていたとか・・・。
今日は暖かく、もう大丈夫とか。
天誅組が向かった時期は、旧暦8月20日、現在の10月2日。秋色が深まりつつあった時期です。
この冬場に現地を訪ねるとは・・・ちょっと時期を間違えました。
明日頃から暖かくなりそうなので、用事がなければ、出掛けたいと思っております。
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