昨年夏から秋にかけて40時間限定で、日本語の教師をしていた。
日曜日の午前中をつかってやるのだが、ほとんどが社会人だった。だから、こちらも実社会に通用するような話の内容に絞って解説をしていたが、そのときツクヅク日本語の不甲斐なさに悩まされた。
中国語で解説するのに、その語源を「从英語来的」と言わなければならない言葉が非常に多い。品質管理や実社会でよく用いられる言葉を説明するので、彼らは、非常によく興味を示してくれる。しかし、それのほとんどが、「从英語来的」となる。
昔、そう、五十年以上前の青少年期に「ラジオいじり」が好きでよく大阪は日本橋にある電気街に遊びに行った。いわゆる「逛街」である。そして、買い物すらできないのにパンフレットをもらって持ち帰り得意になっていた頃がある。でも、そこに書かれている解説文が皆目理解できない。
なぜか? ほとんどがカタカナで書かれているからだ。それを名詞や動詞の間に挟まった助動詞・助詞の平仮名を頼りに想像力を働かせて読み解いていく。それが理解できたときは、得意げになって人に解説をする・・・。
しかし、現在インターネット上で日本文を読んでいてもカタカナが混じっていない文章はない、と言っても過言ではないだろう。たとえば、巨人軍騒動で遣われた、「企業のコンプライアンス」や、オリンパスカメラでの「コーポレートガバナンス」。最近では、「ファシリテーター役に徹せよ・・・」なんて、この国はどこの国なの???である。
その点に行くと中国文明は違う。人名などは、カタカナがないので近い音の文字を用いているがそれ以外は、ほとんど意訳した自国の言葉に直してる。私はパソコンが好きなのでその分野で話すと、マザーボード(母板---主板)メモリー(内存)キーボード(打字盘)ディスプレイ(显示机)プリンター(打印机)スピーカーボックス(音箱)等々。先日はスキャナーを求めに行ったがなんと(扫描机)という。これなどまさに妙訳ではないだろうか。
なぜ日本語の中にこんなに多くのカタカナ文字が混入してきたのだろうか。
確かに、日本は外国からの文明や文化を取り入れてきた。そして、日本に土着することによってそれが日本文化へと変化・発展してきたのだろうと思う。
しかし、現在のカタカナの使用量が度を超えていないだろうか。昔は、映画の題名一つをとってもその内容や雰囲気を表現するような名訳があった。「旅情」なんてあったなぁ。「郷愁」もあったのではなかったかなぁ?それが近頃は、英語の題名をそのままカタカナにて書いてる。
訳すのが面倒なのか、なぜそれがいいと思って表現しているのか。それが理解できない。
もし仮に英語で書くことを「かっこいい」とでも思っているとしたら、それは、大きな間違いだろう。全く庶民を馬鹿にした表現方法だと思う。
明治文明開化の期にあの時代の人達は、外国特に欧米からいろいろなことや物を導入した。しかしできる限りにおいてそれを日本語に直して人々に伝えたろうと思う。
それは、基礎に日本文化を理解する能力があったればこそできることだったと思う。今のジャーナリストは(一部の人を除き)それがない、と断定してもいいのではないだろうか。
ジャーナリストすなわち言論人と言われる人達だ。彼らがカタカナの語句を使うことが即ち文明人であるかのような錯覚をしているように見受けられる。
世論もまた其れをよしとして受け入れるのがまちがっていると思う。
中国嫌いで有名な櫻井よしこ氏は(彼女は中国嫌いではなく、国粋主義者だと思う)それでも、著書の中で「悔しいけれども、中国は外国文明を自国の言葉に改めてその意味を理解できるようにしている。」と表現している。
彼女はハワイ大学を卒業後翻訳業や通訳をしていたらしいがそれほど英語に堪能であっても彼女はそれを表には出さない。まさに「能ある鷹は爪を隠す」の表現がぴったりであろう。思うに、外国語でものを表現する多くの人は浅はかな知識の持ち主なのではないだろうか。
そんなことを中国で日本語を教えていて考えさせられた一時期です。
(彗星一号)
日曜日の午前中をつかってやるのだが、ほとんどが社会人だった。だから、こちらも実社会に通用するような話の内容に絞って解説をしていたが、そのときツクヅク日本語の不甲斐なさに悩まされた。
中国語で解説するのに、その語源を「从英語来的」と言わなければならない言葉が非常に多い。品質管理や実社会でよく用いられる言葉を説明するので、彼らは、非常によく興味を示してくれる。しかし、それのほとんどが、「从英語来的」となる。
昔、そう、五十年以上前の青少年期に「ラジオいじり」が好きでよく大阪は日本橋にある電気街に遊びに行った。いわゆる「逛街」である。そして、買い物すらできないのにパンフレットをもらって持ち帰り得意になっていた頃がある。でも、そこに書かれている解説文が皆目理解できない。
なぜか? ほとんどがカタカナで書かれているからだ。それを名詞や動詞の間に挟まった助動詞・助詞の平仮名を頼りに想像力を働かせて読み解いていく。それが理解できたときは、得意げになって人に解説をする・・・。
しかし、現在インターネット上で日本文を読んでいてもカタカナが混じっていない文章はない、と言っても過言ではないだろう。たとえば、巨人軍騒動で遣われた、「企業のコンプライアンス」や、オリンパスカメラでの「コーポレートガバナンス」。最近では、「ファシリテーター役に徹せよ・・・」なんて、この国はどこの国なの???である。
その点に行くと中国文明は違う。人名などは、カタカナがないので近い音の文字を用いているがそれ以外は、ほとんど意訳した自国の言葉に直してる。私はパソコンが好きなのでその分野で話すと、マザーボード(母板---主板)メモリー(内存)キーボード(打字盘)ディスプレイ(显示机)プリンター(打印机)スピーカーボックス(音箱)等々。先日はスキャナーを求めに行ったがなんと(扫描机)という。これなどまさに妙訳ではないだろうか。
なぜ日本語の中にこんなに多くのカタカナ文字が混入してきたのだろうか。
確かに、日本は外国からの文明や文化を取り入れてきた。そして、日本に土着することによってそれが日本文化へと変化・発展してきたのだろうと思う。
しかし、現在のカタカナの使用量が度を超えていないだろうか。昔は、映画の題名一つをとってもその内容や雰囲気を表現するような名訳があった。「旅情」なんてあったなぁ。「郷愁」もあったのではなかったかなぁ?それが近頃は、英語の題名をそのままカタカナにて書いてる。
訳すのが面倒なのか、なぜそれがいいと思って表現しているのか。それが理解できない。
もし仮に英語で書くことを「かっこいい」とでも思っているとしたら、それは、大きな間違いだろう。全く庶民を馬鹿にした表現方法だと思う。
明治文明開化の期にあの時代の人達は、外国特に欧米からいろいろなことや物を導入した。しかしできる限りにおいてそれを日本語に直して人々に伝えたろうと思う。
それは、基礎に日本文化を理解する能力があったればこそできることだったと思う。今のジャーナリストは(一部の人を除き)それがない、と断定してもいいのではないだろうか。
ジャーナリストすなわち言論人と言われる人達だ。彼らがカタカナの語句を使うことが即ち文明人であるかのような錯覚をしているように見受けられる。
世論もまた其れをよしとして受け入れるのがまちがっていると思う。
中国嫌いで有名な櫻井よしこ氏は(彼女は中国嫌いではなく、国粋主義者だと思う)それでも、著書の中で「悔しいけれども、中国は外国文明を自国の言葉に改めてその意味を理解できるようにしている。」と表現している。
彼女はハワイ大学を卒業後翻訳業や通訳をしていたらしいがそれほど英語に堪能であっても彼女はそれを表には出さない。まさに「能ある鷹は爪を隠す」の表現がぴったりであろう。思うに、外国語でものを表現する多くの人は浅はかな知識の持ち主なのではないだろうか。
そんなことを中国で日本語を教えていて考えさせられた一時期です。
(彗星一号)