こんなんは、ショートショートで書けるわけがない。でも、呑んでふと思ったことを羅列しておけば、あとは仲間がフォローしてくれるだろう。正岡子規も高浜虚子、河東碧梧堂に託したではないか。
うそはおそらくひとだけが言う。“かわうそ”もうそは言わない。なぜ、言うか?他を思いやるゆえに、、、自己弁護のために、、、ひとを乗せるために、、、いろいろある。「折れたたばこのすいがらで、あなたのうそがわかるのよ、、、」ひところ流行った細川?某のヒット曲。「男と女、あやつりつられ、、、」夢舞台。衝突をカバーする潤滑油にはちがいない。
昔、ぼくも、うそをついた。しかし、うそをつかない、いやつけない種類にひとがいたのを知っている。かりに、ぼくが、戦国の武将になったとしよう。うそをつけない側近は貴重。戦略を組み立てるのに、不動のレンガとなる。うそをつくかも知れないスタッフは、かりに才能があっても、重用のしかたがむつかしい。しかし、もともと、動機はともあれ、うそをつくのがひとのさが。そうゆうひとを使い切るには、うそを見抜くのではなく、うそをつかなくてもはげんでくれる状況をたえず維持するほうに、力を注ぐにしかず。
退職十数年、ぼくのまわりには、うそをつかなくてもすむひとたちばかり。やはり、落ち着く。でも、今でも、やさしさゆえにうそをついているひとを否定しない。ひとは、やさしさがいちばん。じゅうなんがいちばん。もっと話を展開したいんだが、アドレナリン切れ。z
トップの信頼を得んがため、敵に殺害された息子の肉が入ったスープを平気で飲み干した魏の将軍“楽羊”(巧詐の例)。
狩りでつかまえた小鹿を、かわいそうに思い、トップの命令に逆らって、逃がしてやった魯の“秦西巴”(拙誠の例)。
極端な例なので、どちらかが完全に正しいとは言えないが、自分としては、バカと言われても「拙誠」を基本にして生きてゆきたい。人に信頼されないことほど辛いことはないと思うから。
「うそ」に関して言えば、人を騙すための「うそ」はいけないし、戒めるべきだと思うが、思いやりから出てくる「うそ」なら大いに結構、肯定的に受け入れることができるのではないだろうか。要は自分の私利私欲のためか、相手のためかの違い。
zさん、済南へ行かれるときに、パソコンは携帯されないのですか?一か月も投稿お休みなんて・・・考えられません。
歌 中条きよし
作詞 山口洋子
作曲 平尾昌章
「夢芝居」 (♪男と女、あやつりつられ・・・)
歌 梅沢富美男
作詞・作曲 小椋佳
それにしても、酔筆、色あせた記憶細胞から出てきたやつをそのままカンバスへじか塗り。もの書きにあるまじき、粗忽。ごめん。今後ともよろしく。
なお、うそとミステイクは似て非なるものなり。前者は有意、後者は無為。無策か?
ねた本、文春文庫澁澤龍彦著「快楽主義の哲学」174頁。