映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

第七の封印 (イングマール・ベルイマン)

2012年12月12日 12時26分03秒 | イングマール・ベルイマン

(1956 97min)

迷信
死神とは迷信、いきなり死神が出て来て死神で終わるこの映画、初めから終わりまで迷信.題材も映画に描かれている通りの古い教会の壁画から得たもの、あるいは宗教上の伝説であり、全てが迷信で構成されている.

騎士
騎士は神の存在を信じている、からこそ、死神の存在を認めチェスを始めたと言ってよいのでしょうか.それに対して手下のヨンスは迷信を信じない、神を信じない人間でした.そして、ヨンスは騎士が嫌いであり、騎士とは考えを異にしていて、十字軍の遠征を全てが無駄な時間だったと批判しています.更に言えば、十字軍の遠征を騎士に勧めた聖学者は泥棒をしている悪党で、ヨンスは彼を神秘学、悪魔学の博士と言いました.
十字軍で神の栄光のために戦い、疲れ果てて戻ってきた騎士を待っていたのは、死に神でした.十字軍は愚の骨頂、理想主義者の戯言であり、常軌を脱した侵略戦争、キリスト教のみが正しいという迷信にのっとった行為の結末には、死に神が待っていました.

教会
壁画には死に神ばかり描かれている.人々が死を忘れないようにして教会に来させるために、人々の恐怖を煽り怯えさせる事を目的とした、絵ばかりが描かれていました.
『人に背を向けて孤独に生きてきた』
『恐怖の中で心に描くもの、人はそれを神と呼ぶ』
その教会の中で、騎士は懺悔をしたのですが、しかし懺悔の相手は、死に神でした.

悪魔に身を任せた娘
疫病を神罰、世紀末と思い込む村人、それを煽る僧.疫病を神罰と信じる村人は、自分をむち打ち、自分を苦しめました.
他方では、悪魔に身を任せた娘が、疫病を拡げたと言い、火あぶりにして苦しめました.そして、夜の火刑場に付いてきた僧は、死神でした.
『私の目を観て、ほら見えるでしょ』
『私に見えるのはむなしさと恐怖.それだけだ』騎士は娘に悪魔がみたいと言ったのだけど、見えたのはむなしさと恐怖だけでした.
あの娘はどこへ行くのだ、天使か、神か、それとも悪魔か.娘の見たものは虚無でしかなかったのです.
疫病にかかった男の場合も同じ、人の死とは、それを怖れる心、恐怖と虚無しかなかったのです.

旅芸人の夫婦.
夫は幻を見る、やはり迷信を信じる人間と言えるのでしょうか.けれども楽天的な性格、そして仲の良い明るい夫婦なのです.騎士は死神が現れた時、まともに受けて立ったのに対して、この夫婦は逃げました.神も死神も迷信、そんな事をまともに考えても仕方がない事である.誰でも、死にたくない、死ぬのが怖いのは当然なのだけど、そうした心で分らないものを考えるからこそ、そこに迷信が生まれる、あるいは神をまともに考えるからこそ、死神が生まれる、迷信が生まれると言えるのではないでしょうか.
この夫婦の会話はこんな感じでした.
『あなたまたほらを吹いている、あなたの言うことなんか、だれもまともに受け取らない、そんな事言ってると皆に馬鹿にされるだけ』
迷信とはこんなもの、この夫婦のように受け流すべき事なのですが、けれども、明るい迷信は皆から馬鹿にされるのに、暗い迷信は皆が信じ込むものらしい.

騎士の城に集まった者たちの前に死神が現れる.世紀末に覚悟を決めた者たち.神に祈りをささげる騎士に、ヨンスは「闇とやらでいくら祈っても、聞き届けてくれる者は誰もいない.己を見据えなさい」、とけ散らす様に言うのですが.

ベルイマンは死に神に引かれて行く一同の姿を、芸人の幻想として漫画みたいに描きました.死に神をと言う暗い迷信を信じる者たちの姿は、天使という明るい迷信を信じる芸人から見れば、滑稽な者たちに映った、と言うことなのでしょう.
死に神とチェスをする、芸人の登っている木が死神に切り倒される、誰がこんな馬鹿げた事を信じるのだ、迷信という信じるに耐え難い話ばかりを集めながら、一方では、観客をには迷信を信じ込ませるように描いているのがこの映画.
『宿屋はどこだ』、道を尋ねた相手は行き倒れの骸骨だった.暗い映画館で観れば、この場面は観客に恐怖を与える.
『恐怖の中で心に描くもの、人はそれを神と呼ぶ』、騎士はこう言ったのですが、けれども、恐怖の中で心に描くものは、暗い思い、自分を苦しめる思い、死に神ばかり、つまりは、虚無なものばかりだったと言えます.
恐怖によって観客の心に暗い迷信を呼び起こしながら、誰にでも迷信を信じ込む迷った心はあるのだけど、どうせ信じるのなら、描かれた多くの者たちのように、死に神のような暗い迷信を信じるのではなく、旅芸人が信じた天使のような、明るい迷信を信じなさい...

書き加えれば、ヨンスの口遊む歌は、女の股ぐらに挟まれどうのこうの、彼自身に言わせれば、死に神を嘲笑し、おのれを笑い、女に微笑む男でした.芸人の座長の男も同じことを言いました.死に神の役なんて女にもてない.迷信、訳の分からないことを考えて自分を苦しめないで、明るく楽しく暮らすことが大切、己を見つめるとは、ある意味でこう言うことなのでしょう.
そしてもう一つ.騎士は自分はチェスが上手いと信じ込んでいた.うぬぼれていたのです.うぬぼれとは、自分自身に対する迷信であり、その騎士に対してヨンスは「己を見据えなさい」、と言ったのですが.

スウェーデン映画『不良少女モニカ』 - SOMMAREN MED MONIKA - (イングマール・ベルイマン)

2012年12月11日 10時52分23秒 | イングマール・ベルイマン
不良少女モニカ - SOMMAREN MED MONIKA -
1952年 92分 スウェーデン

監督  イングマール・ベルイマン
原作  ペール=アンデシュ・フーゲルストルム
脚本  イングマール・ベルイマン
撮影  グンナール・フィッシェル
音楽  エリック・ノードグレーン

出演  ラーシュ・エクボルイ
    ハリエット・アンデルセン
    オーケ・グリュンベルイ
    ベンクト・エクルンド


1948年作の『愛欲の港』によれば、当時のスウェーデンでは堕胎は非合法.金持ちの娘は裏から手を回し病院で堕胎するが、貧乏人の娘は闇の医者に頼り、ばれたら感化院送りになる.

ハリーは子供が出来て、生活を改め、頑張って仕事をするだけでなく、勉強をしてよりよい生活を目指したのですが、他方モニカは、子供を産んでからも、以前と何も変わることはありませんでした.
彼女は、子供を望みをしなかったのですが、その事で二人が真剣に話し合った様子は無い、子供が出来たので当然のように結婚した二人だったのですが.

モニカの年齢設定は17歳.今の日本の感覚で言えば、子供を産むよりも堕胎を考える方が当然の年齢と言ってよいでしょう.モニカが悪いと言ってしまえばそれまでなのですが、好き合った男女二人が、理解し合った上で子供を産み、育てて行かなければならないはず、こう考えれば、彼女が望まないのに子供を生むことが当然と考えていた、ハリーの方にも考え違いがあったと言うべきでしょう.
そして、同時に、子供が出来たら絶対に生まなければならないという、社会の制度も大きな問題と言わなければなりません.先に書いたように、金持ちの娘は、裏から手を回して堕胎をしている実態を見てみぬ振りをして、現実を無視した制度がまかり通っていることは、どの様に考えてもおかしい、社会全体で考え直さなければならない制度だと言えます.
更に言えば、モニカの家族.夫婦の二人は仲が良く、そのせいもあってか子沢山なのですが、子供が健全に育つには程遠い家庭環境でした.酔っ払いと、暴力と、喧騒、あの様な家庭環境で暮していれば、もっと自由に暮したい、好き勝手に暮したい、そうした意識にとらわれて、本来抱くべき生きることへの夢、希望を失っていってしまっても、仕方がないことのように思えます.
彼女にしてみれば自分の子供も兄弟もそれほど年齢の違いがない、あの様な家庭環境から抜け出してすぐに、また自分が同じように子供を育てることになった、そうした環境から逃げ出したくなったとしても、それは、当然の結果のように思えてなりません.

二人の仕事の環境もあまりにも悪かったと言えます.ハリーは、子供が出来たことによる決心によって、人間関係に恵まれた素敵な環境の仕事を見つけましたが、別に子供が出来なくても、そうした仕事を捜すことは出来たはずである.人間関係に恵まれた素敵な環境の仕事、生きがいを持った仕事を見つければ、モニカもまた、考え方は変わっていったのではないでしょうか.

(2019年12月13日加筆)
モニカの両親は子供を作る行為は大好きだけど、子供を育てることには関心がない人間だった.さして広くはない一間の家に子沢山.雑然として安らぎのない家庭環境で育ったモニカもまた、子供を作る行為は好きだったけれど、子供は嫌い、自分が生んだ子供でも自分で育てなければという意識は、全く持ち合わせていなかった.

1975年頃、スウェーデンの法律が変わり堕胎が認められるようになって、詳しくは知りませんが、日本と大差ない制度になったようです.
当時、堕胎を認める要求だけでなく、薬局でのピルの販売等を合わせて要求する運動を行ったらしく、そうした面から、ものすごく性の開放が進んだ国に思われているようですが、日本より開放的であったにしても、映画を観る限り、それほどの差があるようには思えません.

モニカといた夏
https://www.youtube.com/playlist?list=PLyKVKmsuvBSSq3FUZyhlOBkv4Rcrl63Jc

この女たちのすべてを語らないために (イングマール・ベルイマン)

2012年12月06日 07時53分57秒 | イングマール・ベルイマン

(1964 80min)

最初の葬儀のシーンから.「良く似ているけど別人のようだわ」、婦人が何人も出て来て皆同じようなことを言う.少し言い換えれば、この人達、死んだのが本人でも別人でも、どっちでも構わないみたい.
ラストシーンでも同じことが言える.若い音楽家がやってきて、すぐに皆の興味は彼の方に移っていった.天才とは何か、巨匠とは何か、と言うより、そんな存在は回りの皆が勝手に騒ぎ立てて、でっち上げている存在にすぎない.
この女達にとって天才と言われるチェロリストの存在は居ても居なくても同じだった.居ても居なくても同じということは、居ないのと同じこと.つまり、天才、巨匠などというものは居なくても構わない.
小中学生程度の描き方、ベルイマンさん、もう少し真面目にやらなくては駄目.金返せ!

処女の泉 (イングマール・ベルイマン)

2012年12月06日 05時45分15秒 | イングマール・ベルイマン

(1960 89min)

憎しみと罪
順序は逆ですが、まずカーリンを殺した兄弟から.彼らは単に悪い、誰がどう考えても悪いやつらということで考えるものはない.けれども一番下の子供は、何も悪くなかった.彼には罪はありません.

インゲリ.
彼女はカーリンを憎んでいました.これは彼女自身がそう言っていることです.憎しみと罪の絡みで考えてみると、彼女の罪はカーリンが襲われるのを見ていながら、憎しみから救うのを躊躇ったことにあります.これも、彼女自身が父親に告白することであり、描かれたとおりと言えます.
そして、この点で付け加えれば、彼女はカーリンに不幸が訪れるように、悪魔か何かに祈ったみたいですが、まともな人ならその所為でカーリンが強姦に襲われたとは考えないはず.当たり前のことですが宗教は関係ありません.いくら憎い相手であっても、襲われ殺されるのを、観てみぬ振りをしたのは許されない.インゲリの、憎しみと罪の絡みは、これでよいでしょうか.

父親.
法治国家では復讐は許されない事かもしれませんが、時代背景は犯罪者を裁く法律その他が整っていない頃の事、法治国家ではないのですから、復讐という行為が良い事か悪いことか、この点は考えないことにします.カーリンを殺した兄弟二人は、この場合復讐によって殺されても仕方がないとしておきます.書き加えれば、父親は兄弟二人に対して一人で立ち向かった.身を清め彼自身が死ぬ覚悟で立ち向かったと考えて良く、卑怯なものは何もありません.
問題は一番下の幼い子供まで殺してしまったことにあります.食事中の様子とか、上の二人からこの子が殴られていた事とかから、皆にもこの子に罪がないのは分かったはずであり、事実、母親はこの子をかばいました.なのに父親は衝動的にこの子まで投げ殺してしまったのです.この行為は復讐ではなく、単に憎しみの所為に他なりません.憎しみから罪のないものを殺してしまった、ここに罪があると言えます.

信仰と罪.
インゲリはカーリンに不幸が訪れるように悪魔に祈りましたが、決してその所為であの兄弟に襲われ殺されたのでなく、父親もそんな事は分かっているから、インゲリの告白を聞いてそれ以上に責めることはありませんでした.神様に(悪魔に)お願いしても現実に罪を犯すことはできません.(人の不幸を願うことは心の中であってもいけないことですが)
インゲリは悪魔に祈って罪を犯したのではなく、襲われるカーリンを憎しみから見殺しにしたことに罪があり、そしてその罪は「自分が悪い.あの兄弟は悪くはない」と父親に告白することによって、許されるものがあったと思われます.

さて、父親の場合は.非常に信神深い一家でなのですが、彼は殺人を犯しました.憎しみから罪を犯したのは、インゲリも父親も、違いはありません.そしてインゲリが信仰心で罪を犯したのでないのと同様に、信仰深い父親ではあるのですが、信仰によって罪が許されることはないと言えます.
そして、その事は父親自身が一番よく解っている事であり、もし、父親が神に祈って許されるならば、インゲリは悪魔に祈れば許されることになる.インゲリは自分に罪を告白したからこそ許された.
では、一体自分はどうしたら良いのか、天に向かって(神に向かって)「私には分からない」.

渇望 (イングマール・ベルイマン)

2012年12月05日 22時26分27秒 | イングマール・ベルイマン

(1949年 85分)

嘘でも真実でも、許されないこと

まずは回想の中の浮気男から.『女を作るのは男の甲斐性、でも沢山はいかん、二人なら良い.俺は二人共、愛している』この様なことを言っていたけど、嘘であれ本当であれ、妻と愛人二人を目の前にして、身勝手な言いぐさ.
妊娠が三月か四月か知らないけれど、確かに良くは分からないにしても、いずれにしろこの男、女の言っていることを勝手に嘘だと決めつけて、子供のできた若い女を捨てた.

子供を堕胎して、彼女は医者にもう子供を生めないのではないかと聞いたのだけど、医者はなにも答えなかったらしい.医者が患者の問いに答えないこと.

イライラ女の子、ルートだっけ.彼女は列車の中で遊びに来た少女に、チョコレートをあげて、自分のことを好きだというように強要した.あの少女が本当のことを言ったかどうかより、そんな事を子供に強要してはいけない.だからあの子はどれだけチョコレートを貰っても、好きだとは言わなかった.

脳炎を患った女と医者のやり取りは、何処までがまともで、何処からが嘘なのか分からないけれど、いずれにしても、医者が立場を利用して、患者に手を出すことは許されない.明瞭に描かれてるわね.

バレエ学校の教師、生徒が下手なのは間違いなくても、おまえは下手だ、下手だと言って、生徒をいじめることは許されない.

レスビアンの女、親切ごかしに友人を誘い、酒に酔わせて強姦か何かしらないけれど、性的に迫ったのだけど.男と女であれ、男と男であれ、女と女であれ、この様な方法で性的関係を求めることは許されない.
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列車の窓から顔を会わせた旅行者同士、スイスしか行かなかったのか、本当にイタリアまで行ったのか、本当に飛行機に乗ったのかどうか、こんな嘘、本当であろうが、どうでも良いこと.
喧嘩ばかりしているあの二人、他愛もない嘘、あるいは他愛もない真実、つまりは許されない嘘、あるいは真実の、その逆のことばかりで言い争っているみたい.
今度本にまとめるつもり、どんな家庭にも波風はある、牧師の家庭にも.あほくさ、わざわざ本にまとめることなのか、と思うけど、嘘でも本当でも、全くどうでもいい.

と言うことで、この映画に描かれたものは、嘘であれ真実であれ、許されないことの列挙.何となく関連した出来事のように思えるけれど、登場人物に関連を持たせているだけで、描かれていることは全部バラバラなのね.