映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

鏡の中にある如く (イングマール・ベルイマン)

2012年12月05日 22時20分25秒 | イングマール・ベルイマン

(1961年 91分)

素直な自分

姉であり妻である女性から.
彼女は何処までが正気で何処からが異常なのか解らない.彼女自身が二つの自分を行き来するのに疲れたと言う.本当の自分の姿を見つけ出すのに疲れたと言ってもよいでしょう.解らないものを解らないとして受け取ることが素直なものの見方であり、それがこの映画の趣旨でもある.つまり、解らないとは本当の自分が解らない、と、こう言っているのね.

弟の男の子.
思春期の男の子は性に興味があり、当然Hがしたいと思っている(女の子も同じでしょうが).けれども、彼は上辺では女嫌いを装っていた.勉強時間に女の子の裸体の雑誌を見ていたようだけど、「どの子が好き」「すぐにさせてくれるみたいだから?」この姉の言葉は、彼の本心を、素直な心を言い当てていたのでしょう.彼は廃船のなかでお姉さんを犯してしまいました.

父親.
この人は小説で、人の評価ばかり気にして上辺ばかりの綺麗な言葉を並べるのが得意な方みたい.彼女の病気は母親からの遺伝、お母さんも同じ病気で亡くなったみたいだけど、この父親は親子二代に渡った病気の現実から逃れたくて旅を続けている.娘の病気が進行して行く現実から逃げてばかりいたみたい.
彼女は父親の日記を盗み読みした.日記とは、本当の自分の心を書いたもの、素直な自分を書いたものなのね.彼女はその事を夫に話し、夫は船の上で父親にその真意を問いただしました.本心、素直な心はどうなのか問いただしました.父親は自分が自殺しようとしたけれど死にきれなかったことを話、夫に対しては、「妻に対して本当は死んでくれることを望んでいるのだろう」と、逆に本心を問いました.

彼女は病気にもがき苦しみながらも、自分自身を見つけ出そうとした.そうした彼女に関わって行くうちに、家族の皆が自分自身を見つけ出していったのね.(正確に言えば皆が皆、自分の本心をさらけ出すことになった)
父親は姉を犯してしまった男の子に、なんとなく宗教じみた言葉を言ったみたいだけれど、それに対する弟の男の子の言葉は「お父さんが、話をしてくれた」だったのです.
人は皆自分で自分の回りに円を描いて生きている、こう言ったのは父親でしたっけ.円の内側が本当の自分であり、この家族、円の外側には互いに偽った自分を見せて生きてきたのでしょう.家族とは、素直な心で互いに理解を深めあって行く関係.鏡の中にある如く、とは鏡に映った自分の姿のように、ありのままの姿で生きる事、素直な心で生きて行くことが大切なのだと言っています.
付け加えれば、素直な心で生きることには、神様が居ても居なくても関係ありません.

愛欲の港 (イングマール・ベルイマン)

2012年12月05日 07時54分17秒 | イングマール・ベルイマン

家庭の不和、両親の不和がどの様に子供の心を歪めるか、それは描かれたとおり.自分の幸せさえ自分の力で掴むことのできない人間は、親とは言えない.にも増して、これだけはしなければいいのに、と言えることを、子供のためと称して行う、おまえの幸せのためと称して、子供を不幸に落とし込む.
幸せは自分の力で掴むもの.本来幸せを掴む力を親の愛、夫婦の愛が子供に与えるものなのですが.それを与えられてこなかった者たちの集まり、不良グループの者たちは、やはり、他人の幸せを邪魔することによって、自身の欠落した夢希望を埋め合わせしようとする.言い換えれば、自分と同類の人間が自分より幸せになることを邪魔するのです.

そうした人間性は、社会の一部の人間に限ったことではなく、保護司も警察の人間も感化院の人間も皆同じ.保護司の女は、「誰が決めるんだ」と聞かれて「さあ、知らない」と答えたけれど、他人の人生なんて何も考えてはいない、自分の都合があるだけであり、弱いものを抑圧することによって、自分達の幸せを得ていると言えるのでしょう.

イェスタの友人のスカニンゲンの言葉を借りましょう.
「信じるって何をだ、女か 正義か 友情か?」
「どれもこれもクズさ、あるのはただ一つ.エゴだけだ」

ベーリットを取り囲む社会全てがエゴの固まりと言ってよく、更に言えば、ベーリットの過去を知ったイェスタ自身の、自分自身のエゴも.それらは、簡単に言えば、他人の不幸を願うことによって成り立っていると言ってよいでしょう.
生きることに疲れたベーリットと、やはり、長年の船員生活に疲れたイェスタの巡り会い.その恋愛は、自分自身を含めたエゴとの闘いであり、それを乗り越えることが、生きる夢、希望を見出すことを示し、一時は街から逃げ出そうとした二人なのだけど、考えを変え、そのまま街に留まることにした二人の姿は、力を合わせて、互いに助け合って生きること、そこに何より大切なものがある、と告げている.

スウェーデン映画 『魔術師』 - ANSIKTET - (1958年 イングマール・ベルイマン)

2012年12月05日 06時20分05秒 | イングマール・ベルイマン
『魔術師』 - ANSIKTET -
1958年 99分 スウェーデン

監督  イングマール・ベルイマン
脚本  イングマール・ベルイマン
撮影  グンナール・フィッシェル
音楽  エリック・ノードグレーン

出演  マックス・フォン・シドー
    イングリッド・チューリン
    ナイマ・ウィフストランド
    ビビ・アンデショーン
    グンナール・ビョルンストランド
    ビルギッタ・ペテルスン


(2019年12月13日加筆)

酔っ払いの落ちぶれた役者.
馬車のなかで死んだふりをしたけれど本当は死んではいなかった.けれども結局は棺桶のなかで酒を飲んであの世行き.馬車のなかで死んでいても大差なく、どっちにしても死んでしまった.

二人の可愛らしい女の子.
君がサーラで、こっちがサンナか、二人共可愛らしくてどっちにしようか迷ってしまう.名前なんかどっちがどっちでもいい.たとえ名前を間違えて相手が代わってしまっても、何も困らない.

料理番の女.
男が欲しい、男を引き寄せる媚薬を欲しがったけれど、自分を慰めてくれる男が見つかれば、媚薬なんか本物でも偽物でもどっちでもいい事だった.

見るものは見た、知るものは知った、お婆さん.
本当に何歳なのか解らないけれど、このお婆さん魔女なのかどうか.最初は気味悪がった女の子、だけどお婆さんに歌を歌って貰って気持ちよさそうに寝入ってしまった.魔女でも、魔女でなくてもどっちでもいい.

手品師の妻.
夫の嫉妬の所為なのか男装をしているけれど、彼女は夫を愛しているので、夜、ベットのなかで女性に戻れば、昼間は男でも女でもどっちでもいい.

魔術、それは神秘な力なのか、はてまた唯のいかさまなのか、この映画、観てもどっちか解らない.警察署長の妻の本心、それも本当か嘘か解らないけれど、どっちにしても夫の警察署長は妻と別れる気がないみたい.
妻に何を言われても、夫の警察署長は別れるつもりはなかったので、妻の夫を罵る言葉が本心であっても嘘であっても、どっちでもいいことだった.

この映画の原題は『顔』.
おばあさん予言通り首をつって死んだ男、彼は魔術師の顔が気に入らない、あんな奴は鞭打ち刑ににすべきだと言った.でも、その気にいらない顔は、実は変装した顔だった.
魔術師は変装していた.首をつった男とは反対に、領事の婦人はその変装した容姿に想いを寄せたのだった.そして本当の顔を見た途端に、彼女はびっくりして後ずさりした.
今一人、医師は魔術師の本当の顔を観て、前の方が良いと言ったのだが.....
人によって、変装が良いと言ったり本当の顔が良いと言ったり.....
顔なんてどっちでも良い.....と言うより、顔で人を判断してはいけない、と言っているのがこの映画なのでしょう.