映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

戦火のかなた - PAISA - (イタリア 1946年 125分 ロベルト・ロッセリーニ)

2014年05月23日 21時12分42秒 | ロベルト・ロッセリーニ
『戦火のかなた』
イタリア 1946年 125分

監督  ロベルト・ロッセリーニ
製作  マリオ・コンティ
    ロッド・E・ガイガー
    ロベルト・ロッセリーニ
脚本  セルジオ・アミディ
    クラウス・マン
    フェデリコ・フェリーニ
    ヴィクター・ヘインズ
    マルチェロ・パリエーロ
    ロベルト・ロッセリーニ
撮影  オテッロ・マルテッリ
音楽  レンツォ・ロッセリーニ

出演  マリア・ミキ
    ガール・ムア
    ドッツ・M・ジョンソン
    カルメラ・サツィオ
    ロバート・ヴァン・ルーン
    ハリエット・ホワイト
    ジュリエッタ・マシーナ


原題『PAISA』は、呼びかけと言う意味らしい.

シチリア.


シチリア島に上陸したアメリカ兵にとって、村民が味方なのか敵なのか分からない.分からない中で、一人の娘を道案内に連れてアメリカ兵は先へ進む.途中で一軍と別れ、廃墟の城に残ったアメリカ兵と村の娘.片言の言葉で交す会話によって淡い恋が生まれるのだが、アメリカ兵は狙撃によって負傷する.村の娘はアメリカ兵の銃を手に、一人ドイツ兵に立ち向かうのだが、ドイツ兵に撃ち殺される.暫くしてアメリカ兵の一軍が戻ってくるのだが、自軍のアメリカ兵の死体を目にしたとき、村の娘が裏切ったのだと思い込む.アメリカ兵は村の娘の心を理解しなかった.
アメリカ人はイタリア人を解ってくれない.












ナポリ.




イタリアの少年がアメリカ兵の靴を、あるいは物資を盗む.少年が暮らす廃墟、それはアメリカの爆撃、艦砲射撃に寄るものなのだろう.イタリアはドイツに侵略されたのに、アメリカからは侵略者の一員として攻撃を受け、廃墟にされたのだ.余りのひどさに言葉もなく立ちつくし、黙って立ち去るアメリカ兵.
少年は、「眠ったら靴を盗むよ」と言って、盗んだ.トラックの荷台から荷物を落とそうとしていて見つかったら、荷物を元に戻した.靴を返せと言われたら持ってきた.少年は自分が悪いことをしていることをよく知っていたのだが.
それに対して憲兵のアメリカ兵は、「全く子供まで泥棒をしやがるとは」と言っていたが、彼はなぜ子供が泥棒をしなければならないのか、自分たちが艦砲射撃で街を破壊し、多くの市民を犠牲にしたことを知らなかったらしい.
アメリカ人はイタリア人を解っていなかった.
















ローマ.


アメリカ兵はローマ進駐の日に出会ったイタリア娘を好きになる.半年後、アメリカ兵はそのイタリア娘を忘れられず、ローマの街を探し回るのだが.街角で無理矢理、娼婦に誘われたアメリカ兵、彼は泥酔いであったけれど、置き手紙によって自分の探し求めていた娘が娼婦に身を墜としていることを知ったに違いない.
けれども彼は、娼婦をしなければ生きて行けない、イタリアの市民の実態を理解しようとしなかったらしい.清らかな心の娘なんだ、と、思い続けて探し求めていた彼の心が解らないでは無いけれど、自分を恥じ、ささやかな希望を抱いて街角で待ち続ける娘の心を、理解しようとはしなかった.
アメリカ人はイタリア人を解ってくれない.








フィレンツェ.




街の様子が分からないうちは進軍できないと、街を遠巻きにしたままの連合軍.それに対して、街では市民とゲリラが連携して、ドイツ軍とファシストを相手に戦っている.
連合軍の従軍看護婦と、街に住みゲリラとなって戦う画家の恋愛.恋人の姿を求めて危険な街に入る看護婦の女とその恋人の死が、イタリア人同士の理解を意味するとすれば、街を遠巻きにしたままの連合軍は、必死に戦っているイタリア人を理解するものはなかったと言える.
所詮は、住民の一人一人の幸せのために、連合軍は戦っているわけではなかった.
イギリス人はイタリア人を解ってくれない.






北イタリア.


アメリカの従軍牧師、カトリックとプロテスタントとユダヤ教の3人の牧師が、一夜の宿を求めて、由緒ある片田舎のカトリックの修道院にやってきた.アメリカの従軍牧師たちは物見遊山で訪ねてきたようなのだけど、厳格な戒律を守るイタリアの牧師達にとっては、異教徒が寺院に立ち入ることは許し難いことだった.
アメリカの牧師の代表は、食事の前に理解を求める言葉を述べるのだが、イタリア人の牧師たちにとっては、やはり許されない事であったに違いない.
アメリカ人はイタリア人を解ってくれない.



ポー川下流域.
ゲリラはアメリカ軍と共に、あるいは撃墜されたイギリス機の飛行士を救って、共に戦った.そして地元の村の村民も、食事を与えて彼らの戦いに協力したのだが.けれども、村の住民はドイツに皆殺しにされ、ドイツ軍に捕まったイタリアのゲリラ達は、国際法上でなんら保護されることなく、縛られて河に突き落とされて殺害された.





アメリカ兵かイギリス兵か分からないけど、やめろ、と叫んで撃ち殺されたしまったが、ゲリラの処刑を止めることは出来なかった.
そして、今一度フィレンツェの話へ戻れば、ゲリラ達は有無を言わさず、捕まえたファシスト達を撃ち殺されてしまった.そこには、法もなければ止める者もいなかったのだが.
味方だからと言って、アメリカにしろイギリスにしろ、外国の軍隊がイタリア人の一人一人の心を理解し、そして守ってくれることを期待しても無理な話である.
ゲリラ達はドイツ軍に捕まって、裁判もなく、何の容赦もなく殺されてしまったけれど、ゲリラ達自身も、ファシストを捕まえて、裁判もなく、なんの容赦も無く処刑してしまった.
いつまでも、イタリア人同士が啀み合って殺し合いをしていてはいけない.イタリア人同士が団結し、自分たち自身で自分たちを守って行くしかないはずだ.
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日本で1949年に公開された時、GHQによりフィルムがずたずたに切られてしまったそうですが、アメリカ軍は解ってくれないと繰り返し描いたこの映画、GHQに嫌われて当然の内容であったと言えるのでしょう.

映画『地獄に堕ちた勇者ども』 - THE DAMNED - (ルキノ・ヴィスコンティ)

2014年05月23日 00時32分17秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
地獄に堕ちた勇者ども
LA CADUTA DEGLI DEI
1969年 155分
イタリア、西ドイツ、スイス

監督  ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
製作  EVER HAGGIAG
    アルフレッド・レヴィ ALFRED LEVY
脚本  ニコラ・バダルッコ NICOLA BADALUCCO
    エンリコ・メディオーリ ENRICO MEDIOLI
    ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
撮影  アルマンド・ナンヌッツィ ARMANDO NANNUZZI
    パスクァリー・デ・サンティス PASQUALE DE SANTIS
美術  PASQUALE ROMANO
    ENSZO DEL PRATO
音楽  モーリス・ジャール MAURICE JARRE
編集  RUGGERO MASTROIANNI

出演者
フリードリッヒ.....ダーク・ボガード DIRK BOGARDE
ソフィ.............イングリッド・チューリン INGRID THULIN
アッシェンバッハ...ヘルムート・グリーム HELMUT GRIEM
マーチン...........ヘルムート・バーガー HELMUT BERGER
RENAUD VERLEY
ヘルベルト.........ウンベルト・オルシーニ UNBERTO ORSINI
エリザベート.......シャーロット・ランプリング
コンスタンチン.....ルネ・コルデホフ RENE' KOLDEHOFF
ヨアヒム・フォン・エッセンベック.....アルブレヒト・シェーンハルス ALBRECHT SCHONHALS
NORA RICCI CHARLOTTE RAMPLING
ギュンター.........ルノー・ヴェルレー
オルガ.............フロリンダ・ボルカン FLORINDA BOLKAN




狂気と正気、そして強者とは

狂気と正気
狂気とは、描かれたとおりであり、説明するまでもないこと、と言いつつも説明すると、狂気とは人間の心を失うことである.
文学、芸術とは、人の心を描いたもの.その本を燃やしてしまった行為、それは狂気である.
マルティンが、母親の結婚式に連れてきた人間たちは、マリファナを吸っている.麻薬を打つ、マリファナを吸うと、正気ではなくなる.麻薬は狂気になる.

狂気の末路は、描かれた通り、死でしかなく、時代的背景が示すように、死でしかない.
突撃隊のパーティは狂宴だった.親衛隊の襲撃を受けて、彼らは身をかばい、殺さないでくれと言った.これが正気と言ってよいのでしょうか.

強者(権力)と弱者
同盟関係と言うのは、対等な立場を言うのではなく、弱者が強者に服従して、見返りに、自分の安全と利益を得る行為である.
描かれた限りでは、親衛隊のアッシェンバッハ、彼が一番の強者であった.「密告と裏切りが、国民の道徳となった.これこそ第3帝国の偉業だ」と、そうして得た、ドイツ国民全ての情報を集めた資料室で、彼は言った.国民の私生活の情報を入手して、相手の弱みを握り服従させる.それが強者の姿だった.

強者と弱者、そして憎しみ
マルティンは、親と子と言う関係で、母親に服従するよう虐待されて育てられ、そのために、母親の愛情に餓える彼は、母親に憎しみを抱いていた.
彼は、ヘルベルトの言葉によって、母親の弱みを知ると、母親を強姦して服従させ、そして、母親の結婚を破滅に追いやった.彼は、アッシェンバッハの指示で、母親を強姦したのではない.自ら狂気を行ったのである.
少女の強姦、自殺、アッシェンバッハに弱みを握られた彼は、狂気に服従する人間であり、そして自ら進んで狂気を行う人間であった.
会社を手に入れるだけならば、突撃隊を皆殺しにしたように、一族を皆殺しにすれば済む.けれども、それでは、親衛隊という狂気の組織が、大きくなるわけではない.権力に服従し、なおかつ自ら狂気を行う人間に、会社の実権を握らせてこそ、狂気の組織が大きくなる.

ギュンター
ギュンターは父を、フリードリヒが殺したことを知り、憎しみから復讐心を抱いた.そして彼もまた、復讐心をアッシェンバッハに操られて、権力に服従していった.

戻ったヘルベルト
新工場の落成式に誰も出席しなかった.マルティンとギュンンターが、自分に服従しないので、フリードリヒは、彼らが陰謀を企んでいるのだと考えた.「真実を語ろう」、と、彼は話しはじめたのだけど、アッシェンバッハの陰謀で操られているフリードリヒは、マルティンもアッシェンバッハに操られている事が、分からない.
「真実を語ろう」つまりは、「本当のことを言え」と、フリードリヒは、マルティンとギュンターを服従させようとして、話し始めた.その場所へ、ヘルベルトが戻ってきて、真実を語り始める.
彼は、戻れば親衛隊に捕まり、殺されることを承知で戻ってきた.これは狂気と言ってよい.
けれども彼は、彼の知り得る真実、フリードリヒの殺人と、マルティンの母親が、自分の妻子を収容所に送り、殺害したことを話した.真実を話した彼は、正気であったと言える.
「だれかが真相を、すべての人のために伝える必要がある.後の世に」、この、ヘルベルトの言葉は、真の強者を現していると言える.
彼は逃亡を図った.この意味では弱者であったのだが、強者に妻子を殺されたことを知った彼は、自分の死を恐れることなく戻ってきて、真実を話した.権力者に服従することなく、真実を伝えること、それが真の強者と言ってよい.

けれども、ヘルベルトは、勇敢に権力に反抗したが、妻子を殺されてしまった.親衛隊に反抗した突撃隊もしかり、皆殺しにされた.

服従と屈服、そして、団結.
フリードリヒは、会社を自分のものにしたいという欲望を、アッシェンバッハに操られてヨアヒムを殺し、その弱みによって服従を強いられて、更にコンスタンチンを殺すことになった.彼の殺人によって、一族は憎しみ合い、分裂していった.一族を分裂させて、殺し合いをさせる、それがアッシェンバッハの陰謀であった.
狂気に服従しないと(反抗すると)殺されてしまう.
「生き残るために、権力者に服従するが、けれども、決して屈服はしない.この心で、一族が団結するのだ」と、鉄鋼王、ヨアヒムは言った.この考えが、権力者にとって邪魔であったからこそ、彼は暗殺された.そして、彼が言うように、一族が団結すれば、彼は、殺される事はなかったはず.
一人一人は弱い.そして、いつの時代でも陰謀は行われる.
狂気の時代には、権力に屈服しない心で、皆が団結しなければならない.(ヨアヒム)
狂気の時代でないならば、権力に服従しない心で、皆が団結し、そして真実を語らなければならない.(ヘルベルト)



揺れる大地 - LA TERRA TREMA - (ルキノ・ヴィスコンティ 1948年 161分 イタリア)

2014年05月23日 00時22分32秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
揺れる大地 - LA TERRA TREMA - (1948年 161分 イタリア)

監督  ルキノ・ヴィスコンティ
製作  サルボ・ダンジェロ
原案  ルキノ・ヴィスコンティ
脚本  ルキノ・ヴィスコンティ
    アントニオ・ピエトランジェリ
撮影  G・R・アルド
音楽  ウィリー・フェレーロ
助監督 フランチェスコ・ロージ
    フランコ・ゼフィレッリ

出演  アントニオ・アルチディアコノ
    ジュゼッペ・アルチディアコノ
    アントニーノ・ミカーレ



『反抗という言葉も知らない純朴な住民たちだった』、沿革を示すこの言葉からこの映画は始まる.
不正ばかりで、安く魚を買いたたく仲買人に反抗する.初めはみんなで力を合わせて仲買人に立ち向かった.漁師たちは団結して仲買人に反抗した.けれども、自分達の手で直接、街で魚を売ろうと考えたのだが、元手になる資金を必要とすることに対しては、仲間は集まらなかった.皆に手本を示そうと一家だけで事業を始めた.大漁に巡り会い、いったんは事業が成功したかに見えたけれど、嵐に遭い一転して全てを失う事に.

アントーニの好きな女.いったんは結婚を決意したかに思えた彼女は、没落と共に会おうともしなくなった.彼女にとってお金が幸せであったようだ.
長女が想いを寄せる職人の男は、一家の事業が成功したかに見えたとき、豊かな家の女と貧乏な自分を意識して結婚をあきらめる.やはり、お金と幸せを結びつけて考えたようだ.

妹はスカーフ一枚を欲しがって、警察署長の誘惑に乗ってしまう.お金.
弟はお金を稼いで一家を救うべく、怪しげな一味に加わる決心をして家を出る.お金.
地元の住民たちは、一度は成功したかに見えたときの妬みから、誰も彼らを雇おうとしない.
家を差し押さえられ全てを失う一家、アントーニはいたたまれなくなり、浮浪者と一緒に酒浸りの生活になる.

アントーニは船を観たくなった.彼は船の持ち主になった家の娘と出会う.
少女「助けてあげたいけど」
アントーニ「子供じゃあ無理だろう」・・・・・
アントーニ「愛し合って、団結するようにならんと、世間もよくなるまいよ」・・・・・
少女「また見に来てね」

「子供じゃあ無理だろう」なぜ、アントーニはこう答えたのか.子供ではお金を持っていないから、子供ではお金を稼ぐことができないから、だからこんな言葉になったのではないのか.
お金で幸せは買えない、お金以前に、もっと皆が助け合わなければ、こう、映画全体に描き込まれているけど、アントーニ自身がお金で物事を考える人間だったのではないのか.
「愛し合って、団結するようにならんと」と、アントーニは言った.「愛し合って、団結する」事は、お金ではないはず.
「助けてあげたいけど」この少女の言葉が、こう、優しく声をかけることが「愛し合って、団結する」事なのだ.

船を観たくなった、とは、漁に行きたくなった.彼は有能な漁師、その彼が船を観たくなったとは、つまり、頑張って漁をしていた頃の自分を思い出した、あるいは、船を観れば自然と思い出すと言って良いはず.「また見に来てね」と、少女は声をかけた.この言葉は、もう一度、漁に行きなさい、彼にしてみれば、こう、言い聞かせるように受け取られたのでしょう.
恥も外聞もない.如何に罵声を浴びようが、貧乏のどん底から抜け出すには、残った家族が力を合わせて働くしかない.彼らにとっては、もう一度漁に出るより他はない.こうすることが、家族が愛し合って団結することでした.

この映画で描かれた反抗とは団結して戦うことだった.団結して仲買人に対して皆が一緒に戦ったけれど、その団結は、お金が欲しいと言う目的で、皆が一致したからにすぎなかった.けれども、お金だけが目的の結びつきは、お金のバランスが崩れたとき、その団結もバラバラになってしまったのだ.
お金以前に、皆が助け合う心を持つこと、皆が助け合う心で団結することが、何より大切な事である.











若者のすべて - ROCCO E I SUOI FRATELLI - (ルキノ・ヴィスコンティ 1960年 177分 イタリア、フランス)

2014年05月23日 00時01分52秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
若者のすべて - ROCCO E I SUOI FRATELLI - (1960年 177分 イタリア、フランス)

監督  ルキノ・ヴィスコンティ
製作  ゴッフリード・ロンバルド
原作  ジョヴァンニ・テストーリ
原案  ルキノ・ヴィスコンティ
    ヴァスコ・プラトリーニ
脚本  ルキノ・ヴィスコンティ
    スーゾ・チェッキ・ダミーコ
    パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ
    マッシモ・フランチオーザ
    エンリコ・メディオーリ
撮影  ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽  ニーノ・ロータ

出演  アラン・ドロン
    アニー・ジラルド
    レナート・サルヴァトーリ
    クラウディア・カルディナーレ
    カティーナ・パクシヌー
    アドリアーナ・アスティ
    シュジー・ドレール
    ニーノ・カステルヌオーヴォ



思い遣りと身勝手
三省堂大辞林より
あわれみ 【哀れみ・憐れみ・愍れみ・憫れみ】
 かわいそうに思うこと。ふびんに思う気持ち。同情。慈悲。「―を乞う」「―をかける」

おもいやり 【思い遣り】
(1)その人の身になって考えること。察して気遣うこと。同情。「―のない仕打ち」
(2)遠くから思うこと。想像。推量。「―異なることなき閨のうちに/源氏{帚木}」
(3)思いめぐらすこと。思慮。考え。「いにしへのすきは、―少なきほどのあやまちに/源氏{薄雲}」

憐れみも、思い遣りも、どちらも同情という意味を持つのだが、この二つの言葉が同じでないことは、容易に察しがつく.

しょうだく【承諾】
(1)他人の依頼・要求などをもっともと思い、引き受けること。承知。
(2)申し込みの意思表示と結合して契約を成立させる意思表示。

りかい【理解】
(1)物事のしくみや状況、また、その意味するところなどをわかること。納得すること。のみこむこと。
(2)相手の立場や気持ちをくみとること。
(3)道理。わけ。また、道理を説いて聞かせること。
(4)「了解{(2)}」に同じ。

承諾するとは、相手の要求を理解し、了解、了承することである.つまり、承諾とは理解である.

ラストシーンから.
帰りかけたルーカが振り返ると、兄のチーロとその恋人がキスをしていた.弟は、「今夜家においでよ」と声をかけた.家族とはどう言うものか、と、問うとき、好き合った男女が一緒になって幸せに暮らすこと、それが何より大切なことであるのは、幼い弟にも理解されたはずである.こう考えれば、大聖堂の屋根の上で繰り広げられるシーン、ナディアに対するロッコの話は、好き合った男女の仲を引き裂くものであり、湖畔の殺戮のシーンは、その結果として引き起こされたことが明瞭に理解される.
DVD付録の予告編は、この映画の封切り時にカットされた部分をお見せしましょう、と言う編集なのだけど、重要の部分がほとんど切られていた.

最初に戻って.
母親と兄弟4人は長男を頼って、正確に言えば長男の結婚予定の相手の家を頼って、南のはてから北部のミラノにやって来たのだった.おまけに一家揃って越してくるとは連絡してなかったようだ.いきなり多人数の家族にやって来られては誰だって困る.これはどのように考えても身勝手であり、一家の身勝手からこの映画は始まっている.

長男ヴィンチェンツォ.




その恋人ジネッタとの会話から.
「ほんとに好きな女なら、強引にものにしろって」、とヴィンチェンツォの母親が言ったという.『女をものにする』とは、男の身勝手な考え方.「ものにする?.親はどうでも、私の承諾だけはいるのよ」、ジネッタはヴィンチェンツォをひっぱたいて言い放つ.
結婚は、決して強引に相手をものにすることではない.結婚を承諾すると言うことは、二人が互いの心を理解し合ったと言うことのはずだ.












次男シモーネ.


試合に初勝利のその日、通りに出るとシモーネはナディアに出会った.ついさっき、お祝いに食事に行く約束をしたばかりなのに、その約束を反故にして、シモーネはナディアと二人、すたすたと夜道を行く.
弟ロッコの勤め先に押しかけてロッコの給料を前借りさせ、クリーニング代も弟に押しつけて、練習をサボって女と遊びに行ってしまった.
盗んだブローチをナディアにプレゼントしたが、容易に察しがついたナディアはロッコに返してくれるように頼んだ.盗んだ物をプレゼントしても、相手は喜びはしない.
「おまえはおれの女だ」と言い放ち、ナディアを強姦した.
「金をやるから、出て行け」と言ったら、「出て行って欲しかったら、もっと金をよこせ」と言う.
言うこともやることも全て身勝手、この男の身勝手は切りがない.
けれども家族の誰もが、彼の身勝手を正すことが出来なかった.シモーネの身勝手を放置した、その結果と言ってよいであろう、ついに最後は殺人を犯すことに.








三男ロッコ.




彼は自分の恋人ナディアに「兄を救って欲しい」と言ったのだった.けれども、言われたナディアにしてみれば、なぜ自分が嫌いな男に尽さなければならないのか、まして、自分が本当に好きな相手から、そのように頼まれるとは.仮にロッコの言葉が兄に対する思い遣りであったにしても、ナディアにしてみればロッコの身勝手な言い草に過ぎなかった.ナディアにとってロッコの言葉は、残酷なシモーネの行為に、更に輪をかけた残酷な仕打ちだったとも言える.












四男チーロ.


お祭りの街中で突然に「キスしてくれ」と、身勝手な望みを言ったチーロ.
「こんなところで」、とは言ったけれど、彼女はチーロの気持ちを分ってくれたようだ.
二人は、満足の行くまでキスした.身勝手な言葉であっても、相手が理解してくれたなら、何も身勝手ではなかった.

「パパがあんたに来てほしいって」
「今でもいい」
「いや、明日にしよう.駆け落ちのチャンスを残しとくよ」
彼女の父親は家に来てほしいといった.チーロを気に入ったようだ.けれども、明日にしようと考え直したようだ.初めて会った日に家に来いと言うのは身勝手.自分はチーロを気に入ったけれど、チーロが自分をどう思ったかは別の話.もし、チーロが自分を気に入らないのなら、娘と駆け落ちすればいい.結婚するかどうかは当人同士の問題である.彼女の父親はこんな風に理解したのでは.






末の弟ルーカ


『家族だから』『兄弟だから』と、皆が殺人を犯したシモーネを匿おうとした.匿って救おうとしたのだが、家族の中でチーロだけは、救いようがなく警察に任せる以外に方法がないことを、すぐに理解したと言える.
工場のお昼休み、末の弟ルーカはチーロに会いに来た.シモーネが警察に捕まったことを知らせに来た.....『お前は家族の中で裏切り者だ.おまえのせいで警察に捕まった』と、言いに来たのだった.
そんなルーカにチーロは自分の気持ちを、自分の考えを幼い弟に話して聞かせた.「ロッコの寛大さが.....ロッコは赦してはならない者を赦してしまった」、こんな話をしたのだが、チーロの言うことが幼いなりにも良く理解されたらしく、聞き終わってルーカは納得して帰り道についたのだった.







互いの心を正しく理解しあって、互いに思い遣りの心で接することで信頼が生まれる.四男チーロがルーカに、「いつか分かるときが来ると思うけれど」と理解を求めたのだが、その話の内容は、兄弟に対する彼なりの正しい理解に基づく思い遣りが含まれた言葉だった.
その実態は全く描かれないのだけど、チーロは夜学に通い勉強した.学ぶ、知る、と言うことは、理解すると言うことに等しい、あるいは、より理解を深める行為と言えるはず.
反対に身勝手は、家族の信頼関係を引き裂き、皆の生きる夢、希望を奪うことになった.同情、哀れみは、一見相手の幸せを願っているかに思えても、所詮は自分勝手な、身勝手な思い込みに過ぎない事であったのだ.

チーロの思い遣りが理解より派生するものであるならば、他方、ロッコがシモーネに対して見せた思い遣りは単に同情、哀れみに過ぎなかった.互いの理解が信頼を生み、そして、そこから生きる夢、希望を生み出すものならば、同情、哀れみは見事なほどになにも生み出しはしない.に留まらず、ナディアの生きる夢、希望を奪ったのは、ロッコのシモーネに対する同情心、哀れみであり、結果としてナディアは刹那的な生き方をすることになり、そうしたナディアの生き方もまた、ナディア自身もシモーネも誰も救いはしなかった.
ナディアを殺して帰ってきたシモーネに、ロッコは自分だけに話せと言ったのだった.また兄弟に言わせれば、ロッコは言い出すと聞かない性格らしい.ロッコはシモーネの不正な行いを話そうとはしなかった.自分の給料を前借りさせた件、ブローチの窃盗、ナディアを強姦し自分を殴りつけた事件、シモーネの不正な行為を兄弟に話そうとしなかった.ロッコは全ての不幸を自分一人で背負い込もうとしたのだが、その結果はシモーネが殺人を犯すことにしかならなかったのだ.皆で話し合えば互いの理解が得られ、そして理解が信頼を産むのである.けれども、シモーネの不正を秘密にしたロッコの行為は、家族の不審を産むだけであったと言える.

シモーネが金を盗んで警察に訴えられた時、ロッコは長期契約の契約金でお金を工面しようとした.長男のヴィンチェンツォは、「家庭がある」「子供が産まれたばかり」などと理由をつけてお金の工面を断った.チーロはロッコに止めるように言ったが、けれども最後は彼もまた、ロッコに従ったのだった.
シモーネがナディアの気を引くために、ブローチを盗んでプレゼントしたこと、そして強姦して、ロッコからナディアを奪い取ったこと、チーロはこうした出来事を知らなかった.チーロはロッコの工面した金を渡して、シモーネを家から追い出そうとしたのだが、全てを知っていたならば、間違いなくこの時点で、シモーネが警察に捕まる道を選んだであろう.

チーロの言葉を借りれば、シモーネの身勝手にロッコの寛大さが輪をかけることになったのだ.ロッコは丈夫な家の基礎を作るために生け贄がいると言ったが、丈夫な家族の絆のために、生け贄がいるというようにも受け取れる.ロッコとシモーネの兄弟の絆のために、生け贄としてナディアが必要だったとでも言いたかったのだろうか?.ロッコがシモーネを救うために決心した拳闘のシーンと、シモーネがナディアを殺傷するシーンが交互に進行する.ナディアを殺したのは誰なのか、誰なのか、と、問いかけるように.

ロッコは以前に試合を終えた時、このように言ったことがあった.
「敵は奴じゃなかった.誰かしらない憎い相手だった.いつのまにか渦巻いていた憎悪を、相手にぶつけていた.嫌なことだよ」
『誰かしらない憎い相手だった』とは、シモーネに他ならない.チーロは『ロッコは聖人で、赦してはならない者を赦してしまった』と言ったのだが、正確に言えば『赦すことの出来ない者を赦してしまった』のである.チーロも全ての出来事を知っていれば、彼もこのように、あるいは、このようにも言ったであろう.
他人の金を盗んだやつは、赦してはならないかもしれないが、赦すことは出来る.けれども自分の好きな女を強姦して奪ったやつは、赦してはならないし、赦すことも出来ない.
ロッコは必至に苦しみを押さえ込んで、心をねじ曲げて、上辺の言葉ではシモーネを赦した.赦したつもりでいた.ロッコ自身、そう信じて居たであろうが.....けれども心の奥底には、歪んだ憎悪の感情を抱き続ける事になったのだ.
ロッコはシモーネに対する憎しみを心の奥底に押し殺し、それに加えてナディアの死という悲しみを心の奥底に押し殺し.....、ルーカの帰り道、道の壁に、憎しみと悲しみに満ちた顔、歪んだ心のロッコの写真が、優しさが全て失われたロッコの写真が、幾枚も幾枚も張られていた.



『勝つことは初めから分ってた』
『敵は奴じゃなかった』


『いつのまにか心の中に』
『渦巻いていた憎悪を、相手にぶつけていた』
『嫌なことだよ』



















処女を失った女は全て娼婦だった.