ランジュ氏の犯罪 - LE CRIME DE MONSIEUR LANGE - (1936年 76分 フランス)
監督 ジャン・ルノワール
脚本 ジャン・ルノワール
ジャック・プレヴェール
撮影 ジャン・バシェーレ
出演 ルネ・ルフェーブル
フロレル
ジュール・ベリ
マルセル・レヴェスク
オデット・タラザク
アンリ・ギゾール
モーリス・バケ
日本未公開の作品で、日本で観れるのは、今回のDVDの発売が初めてのようです.
残念ながら、全体に渡って画質は良くありません.
まずは、どうしようもない男、
バタラ
--------------------------------------------
「生きてて、くやしいだろ.殺すしかないな」
「ああ.泣く者など...」
「いるさ、女たちだ」
この男は詐欺師、出資者を騙し、社員を騙し、女を騙し、神父に化けて人々の善意を欺き、生きている限り皆を苦しませる、自ら言う通り「殺すしかない」どうしようもない人間.
殺されたら女が泣くと嘘ぶいたけれど、舌の渇かぬうちにまた女を泣かせ始めた.
ムニエ
-------------------------------------------
「死んだ?.簡単だね」
「逃げるのよ」
.....
「人を殺した」
「嘘だろ」
「本当よ」
「そうか.頭では分るが、その経験はない」
「だが、最良の方法はすぐ逃げることだな.行くぞ、私に任せろ」
.....
「どうする?」
「逃げるのよ.私も一緒に行く」
とにかく、急いで急いで、国境まで逃げてきた.....
それはそれとして、普通は逃げるのを手助けするのなら、誰を殺したのか?、なぜ?、と聞くものなのだけど.....
食事と宿泊の『国境』
ヴァランティーヌ
------------------------------------------
「確かに人を殺した.でも、その事情を説明するから聞いて.それでも通報するなら仕方ないわ」
「もし.....私の名前はヴァランティーヌ.恋多き女だけど、今は彼ひとすじよ.....」
.....
「私は、ありのままを話しただけ.ひどい話だけど、これが真実よ.好きにして」
現在の日本の感覚で言えば、まず逃げ切ることは出来ないのと、おそらく裁判が正しく行われるであろう期待から、『私なら自首を勧める』と、多くの方が言うと思います.
事情を聞いて自首を勧める、その考え方はこの映画においても基本的にはその通りであって、ヴァランティーヌは事実をありのままに話して、後の判断は皆に任せました.皆が警察に通報したならば、宿で警察に捕まるだけのこと、自分が警察まで出向くか、迎えに来てもらうのか、違いがあったにしても、自首したのと同じ事でした.
法律が絶対に正しいとは言いきれない、法の裁きが絶対に正しいとは言いきることは出来ない.であるならば、ランジュ氏の殺人、その過ちが、間違った法律で裁かれるに値するかどうか?.
間違いと間違いを秤にかけた、その結果は、値しないと言うのが、宿に居合わせた人々の判断でした.....
と考えて行くと、自然と、正しい裁判とはどの様なことなのか?、こう問うことになるはず.
こう問えば、正しい裁判とは真実を述べることが基本であるのは誰にでも判ること.では、ヴァランティーヌは、自分から進んで、事実をありのままに述べ、そして判断は皆に任せた、この出来事は一体なんであったのか?.
現実の裁判とは、検事は法律論を振り回し、弁護士は情状酌量を求めて、綺麗事を並べ立てる.
それに対して、
「私は、ありのままを話しただけ.ひどい話だけど、これが真実よ.好きにして」
ヴァランティーヌはこう言ったのですが、まさしく正しい裁判が行われ、無罪の判決が下ったのだと言えると思います.
法律で罪人を裁くのが裁判ではなく、被告人(証人)が真実を述べ、そして、皆で考えるのが正しい裁判である.
書き加えれば、
宿に居合わせた人たちが、ランジュ氏のことを警察に通報するかどうかで議論になりましたが、彼を警察に引き渡すということは、彼を殺人罪で裁判にかけると言うことなのです.つまり、彼を裁判にかけるべきかどうか、皆で議論になりました.
そして、バタラと言う人間は、
出資者に対する詐欺で警察に捕まったにしても、すぐに釈放になると、彼は言いました.
彼にしてみれば、借用書の無い借金は返す必要がなく、神父に化けて得た善意のお金も、当然返すつもりはありません.
女の騙して泣かせても、彼には全く罪悪感はなく、女にしてみれば泣き寝入りするしかない出来事でした.
つまり、バタラは自分で言ったように殺すしかない人間、裁判で裁くことは出来ない人間であったのです.
裁判で裁くことの出来ない悪人を撃ち殺してしまったランジュ氏を、果たして裁判で正しく裁くことが出来るのか?.
出来ないと考えたのが、宿に居合わせた者達の結論であったと、言えるのではないでしょうか.
監督 ジャン・ルノワール
脚本 ジャン・ルノワール
ジャック・プレヴェール
撮影 ジャン・バシェーレ
出演 ルネ・ルフェーブル
フロレル
ジュール・ベリ
マルセル・レヴェスク
オデット・タラザク
アンリ・ギゾール
モーリス・バケ
日本未公開の作品で、日本で観れるのは、今回のDVDの発売が初めてのようです.
残念ながら、全体に渡って画質は良くありません.
まずは、どうしようもない男、
バタラ
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「生きてて、くやしいだろ.殺すしかないな」
「ああ.泣く者など...」
「いるさ、女たちだ」
この男は詐欺師、出資者を騙し、社員を騙し、女を騙し、神父に化けて人々の善意を欺き、生きている限り皆を苦しませる、自ら言う通り「殺すしかない」どうしようもない人間.
殺されたら女が泣くと嘘ぶいたけれど、舌の渇かぬうちにまた女を泣かせ始めた.
ムニエ
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「死んだ?.簡単だね」
「逃げるのよ」
.....
「人を殺した」
「嘘だろ」
「本当よ」
「そうか.頭では分るが、その経験はない」
「だが、最良の方法はすぐ逃げることだな.行くぞ、私に任せろ」
.....
「どうする?」
「逃げるのよ.私も一緒に行く」
とにかく、急いで急いで、国境まで逃げてきた.....
それはそれとして、普通は逃げるのを手助けするのなら、誰を殺したのか?、なぜ?、と聞くものなのだけど.....
食事と宿泊の『国境』
ヴァランティーヌ
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「確かに人を殺した.でも、その事情を説明するから聞いて.それでも通報するなら仕方ないわ」
「もし.....私の名前はヴァランティーヌ.恋多き女だけど、今は彼ひとすじよ.....」
.....
「私は、ありのままを話しただけ.ひどい話だけど、これが真実よ.好きにして」
現在の日本の感覚で言えば、まず逃げ切ることは出来ないのと、おそらく裁判が正しく行われるであろう期待から、『私なら自首を勧める』と、多くの方が言うと思います.
事情を聞いて自首を勧める、その考え方はこの映画においても基本的にはその通りであって、ヴァランティーヌは事実をありのままに話して、後の判断は皆に任せました.皆が警察に通報したならば、宿で警察に捕まるだけのこと、自分が警察まで出向くか、迎えに来てもらうのか、違いがあったにしても、自首したのと同じ事でした.
法律が絶対に正しいとは言いきれない、法の裁きが絶対に正しいとは言いきることは出来ない.であるならば、ランジュ氏の殺人、その過ちが、間違った法律で裁かれるに値するかどうか?.
間違いと間違いを秤にかけた、その結果は、値しないと言うのが、宿に居合わせた人々の判断でした.....
と考えて行くと、自然と、正しい裁判とはどの様なことなのか?、こう問うことになるはず.
こう問えば、正しい裁判とは真実を述べることが基本であるのは誰にでも判ること.では、ヴァランティーヌは、自分から進んで、事実をありのままに述べ、そして判断は皆に任せた、この出来事は一体なんであったのか?.
現実の裁判とは、検事は法律論を振り回し、弁護士は情状酌量を求めて、綺麗事を並べ立てる.
それに対して、
「私は、ありのままを話しただけ.ひどい話だけど、これが真実よ.好きにして」
ヴァランティーヌはこう言ったのですが、まさしく正しい裁判が行われ、無罪の判決が下ったのだと言えると思います.
法律で罪人を裁くのが裁判ではなく、被告人(証人)が真実を述べ、そして、皆で考えるのが正しい裁判である.
書き加えれば、
宿に居合わせた人たちが、ランジュ氏のことを警察に通報するかどうかで議論になりましたが、彼を警察に引き渡すということは、彼を殺人罪で裁判にかけると言うことなのです.つまり、彼を裁判にかけるべきかどうか、皆で議論になりました.
そして、バタラと言う人間は、
出資者に対する詐欺で警察に捕まったにしても、すぐに釈放になると、彼は言いました.
彼にしてみれば、借用書の無い借金は返す必要がなく、神父に化けて得た善意のお金も、当然返すつもりはありません.
女の騙して泣かせても、彼には全く罪悪感はなく、女にしてみれば泣き寝入りするしかない出来事でした.
つまり、バタラは自分で言ったように殺すしかない人間、裁判で裁くことは出来ない人間であったのです.
裁判で裁くことの出来ない悪人を撃ち殺してしまったランジュ氏を、果たして裁判で正しく裁くことが出来るのか?.
出来ないと考えたのが、宿に居合わせた者達の結論であったと、言えるのではないでしょうか.