映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

赤線地帯 (公開1956年3月18日 86分 大映)

2014年05月22日 03時23分53秒 | 溝口健二
『赤線地帯』 (公開1956年3月18日 86分 大映)
監督   溝口健二
製作   永田雅一
企画   市川久夫
原作   芝木好子
脚本   成沢昌茂
撮影   宮川一夫
美術   水谷浩
衣裳   東郷嗣男
編集   菅沼完二
音響効果 花田勝次郎
音楽   黛敏郎
助監督  中村倍也 増村保造

出演
三益愛子.....ゆめ子
やすみ......若尾文子
ミッキー.....京マチ子
ハナエ......木暮実千代
より江......町田博子
しづ子......川上康子
田谷倉造.....進藤英太郎
田谷辰子.....沢村貞子
おたね......浦辺粂子
息子・修一....入江洋吉
ミッキーの父...小川虎之助
チンピラ栄公...菅原謙二
巡査.......見明凡太郎


息子がお店へ会いに来たが、ユメ子は会うのを躊躇った.
『背広の一着も作ってやらなくちゃ』、息子が返った後、ユメ子はこう言って、もう一仕事頑張ろうと、店の外に出て客引きを始めたのだが、その姿を物陰から見ていた息子は、泣きじゃくって帰って行った.

息子のために頑張って仕事をしようとする母親の姿は間違っていないはずだが、けれども母親が売春婦をしているという事実は、年頃の子供にとって許容できない出来事だった.

さて、売春宿の主人の言葉、正しいように思えるけれど、本当に正しいかどうか?
あるいは、言っていることが正しくても、売春婦の上前をはねる商売を、正しい仕事と言えるのか?
こう考えると、彼の言葉を訂正する必要があるのが分ります.

『野党の奴等、売春婦は日本の恥だと言いやがる』
->『売春をしなければ生きて行くことが出来ない人間が居ることは、日本の恥である』

『俺達は、国の代わりに社会事業をやっているんだ』
->『国が弱者のために、きちんと社会事業をやれ』
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同じ頃、五所平之助が『たけくらべ』を撮っています.
こちらは、『決して褒められる仕事ではない』事を、売春を行っている人達自身が、自覚しなければならないのだと描いています.


『お国のために、性の防波堤になってくれ』、かつて、国の要請に従い、RAA特殊慰安施設協会に協力しアメリカ兵を受け入れたが、すぐに性病がまん延して、アメリカ兵は立ち入り禁止になった.


ゆめ子は店の前で客引きをしていたが.....


訪ねてきた息子に気がついて、慌てて店の中に逃げ込んだ.


会わずに息子を帰したが、『背広の一着も作ってやらなくちゃ.頑張らなくては』と、再び客引きを始めたゆめ子.


息子はその姿を、物陰から観ていた.

マリヤのお雪 (溝口健二)

2014年05月22日 03時18分50秒 | 溝口健二
『マリヤのお雪』 松竹 公開年月 1935年5月30日

監督   溝口健二
原作   川口松太郎
脚色   高島達之助
撮影   三木稔
衣裳   小笹庄治郎
編集   石本統吉
指揮   酒井龍峯、金馬雄作

出演
お雪...........山田五十鈴
おきん.........原駒子
朝倉晋吾.......夏川大二郎
佐土原健介.....中野英治
通子...........歌川絹枝
おちえ.........大泉慶治
権田惣兵衛.....根岸東一郎
お勢...........滝沢静子
儀助...........小泉嘉輔
官軍大佐.......鳥居正


『死のうたって、寿命があれば助かるし、生きようと思ったって、無けりゃそれまでさ』
今更じたばたしても始まらない.死のうとしても、生きようとしても、どっちでも同じじゃないの?

『三日や四日、どこでどう暮したって、飲まず食わずにゃ慣れてる私たちじゃないか』
貧乏暮らしの自分たちは、一食や二食、食べても食べなくても、同じじゃないか.

『どうせ酌婦風情ですもの、石ころのように踏まれたり蹴られたり』
今更何されても、同じ.

『戦場だって墓場だって構わない.わたしゃ不人情なやつがいないところへゆきたいのさ.住めば都ってね』
どこで住んでも、同じこと.

そしてお雪はおきんに言う.
『考えてもごらん、あの人を西郷方へ突き出してもそれまでの話じゃないの.』
『由、また逃がしてやったにしても、二度と会える人じゃない.』
『この戦争が何時収まるか知らないが、いずれは官軍の勝利に決まっている.』
『戦争が済んで官軍の兵隊が東京へ引き上げてしまえば、惚れたも張れたもありゃあしない.』
『運良く行って朝倉さんが東京へ凱旋したと考えてごらん.』
『それこそ金筋を光らせた陸軍の将校様だ.』
『わらじやの一文酌婦が、命懸けで惚れてみたって添い遂げられる人じゃあない.』
『ほんの戦場の出来心、長続きの出来る相手でないことは、お前にだって解っているじゃあないか.』

二度と会えない相手ならば、生かしても、殺しても、同じことだった.
『お前も私も惚れた男だ、たとえ一日一刻でも、惚れた男のためなら、幸せを願ってやるのが女の道じゃあないか』
人を好きになるということは、相手の幸せを願うこと.
自分の幸せしか考えないことは、卑怯.
官軍大佐が、おきんを邪険に扱ったことは、田舎者の芸者とバカにした行為で、卑怯だったのかも.
『私も、お前も田舎芸者.好きになっても、どちらも一緒になれはしないんだ』お雪はこう言って、官軍大佐を撃とうとするおきんを止めました.
決して私は自分の幸せだけを願って言っているのではない.私の幸せも、お前の幸せも同じなのだ、こう言ったのですね.
付け加えれば、自分の幸せのために他人を犠牲にするやつは論外.


愛のめぐりあい - PAR DELA LES NUAGES - (ミケランジェロ・アントニオーニ)

2014年05月16日 19時08分52秒 | ミケランジェロ・アントニオーニ
愛のめぐりあい - AL DI LA DELLE NUVOLE - (1995年 110分 フランス/イタリア/ドイツ)

監督  ミケランジェロ・アントニオーニ
    ヴィム・ヴェンダース
製作  フィリップ・カルカソンヌ
    ステファーヌ・チャルガディエフ
脚本  ミケランジェロ・アントニオーニ
    ヴィム・ヴェンダース
    トニーノ・グエッラ
撮影  アルフィオ・コンチーニ
    ロビー・ミューラー
音楽  ルチオ・ダルラ
    ローラン・プティガン

出演  ジョン・マルコヴィッチ
    ソフィー・マルソー
    ファニー・アルダン
    キアラ・カゼッリ
    ピーター・ウェラー
    ジャン・レノ
    イレーヌ・ジャコブ
    ヴァンサン・ペレーズ
    イネス・サストル
    キム・ロッシ=スチュアート
    マルチェロ・マストロヤンニ

淫乱な女との恋の物語




豪邸を自分の家だと言ったカルメン.10日程前に同棲していた男から手紙が来たと言い、その手紙を暗唱したが.....
けれどもその同棲相手とどうなったのか?、別れたのか、それともいつか、戻ってくる相手なのかさっぱり分らない.....
分らないと言えば、カルメンはシルヴァーノを待ち続けていたと言った、が、なぜカルメンが自分を待ち続けていたのか、シルヴァーノには解らなかった.
シルヴァーノは結局カルメンを抱かなかった.


気に入れば誰とでも一緒に暮らす女


女の犯罪




なぜ、あの女は犯罪を打ち明け、恋人がいるのに、通りすがりに過ぎない私(映画監督)と肉体関係を持ったのか?.
父親を刺し殺したと言う女.話があると言うので、その理由を話すのではと思って女の家へ行ったのだが、何も話はなく関係を持ってしまった.
結局、女がなぜ父親を殺したのか解らなかった.私はその町から逃げ出した.(彼女の前から姿を消した) なぜって、自分も訳の分からない内に殺されるかもしれないから.




魂の女


メキシコの探検隊の話から気の合った、男と若い女.この男、若い女と別れようとしても、その色香の前に肉体関係を絶ちきれなかった.
この女の話し、理解できるだろうか?.妻のある男を誘惑しながら、他の女の匂いがすると言って、男と妻との関係を問い詰めた.嫉妬深いだけで、何も分からない女だった.






私を探さないで


夫はなぜ妻が家財道具を引き払って、家をでていったのか分からない.幾年か連れ添ってきた妻の気持ちが分からない.そこへやって来た、自分の妻と同じように、夫の元から逃げ出してきた女、この女もやはり夫の気持ちが理解できなくて、逃げ出してきたみたい.
夫もこの女も、幾年も連れ添ってきた相手の気持ちが理解できなくて、生きることに索漠とした気持ちを抱いている、と言うことが、互いに理解されたので、この二人、初めて会ってすぐに、何となく気が合ってしまった.






妻に逃げられた男と、その逃げ出した妻





画家と友人


画家とその友人の女.現代は偽物流行り.その話の内容は触れずに置くとして、結局この女と言うよりこの二人、互いの気持ちを理解し合った友人のようだ.(この二人、マルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モロー.こんなに優しい表情のジャンヌ・モローを観たの初めて)

聖女との恋の物語


若い男女.巡り会いをチャンスとばかり、男は女に言い寄るのだけれど、けれども彼女は明日から修道院へ行くと言う.参考までにこの二人、肉体関係はないけれど、有ろうが無かろうが、二十歳の若い娘が修道院に行くなんて、男にとって、到底理解できないことだった.





男女が互いの心を理解し合うのに、肉体関係はあっても無くても関係ない、と言うことで良いのでしょうか.もう少し付け加えれば、上辺の言葉、綺麗な言葉、お世辞とか、こんな言葉で女の子は喜ぶとか、そうした会話によって、男女の心が理解し合えるものではない.空き家同然のアパートに取り残された男と、そこへやって来た女、この二人の、ふとなんとなく気が合う心は、こんなふうに語っているのでしょう.
男と女、互いに理解を求め合うとき、必然的に体も求め合うけれど、けれども肉体関係を持ったからと言って、互いに理解し合ったと言うことはできない.もっと簡単に、肉体関係を持っても相手の気持ちは解らない、でも良いでしょうか.




この辺りに真実がありそうな.....


挿話を書き加えましょう.


この二人、夫婦なのか、恋人同士なのか、兄弟なのか、単なる友達なのかよく分からない.夫婦、あるいは兄弟ではないみたいなのだけど、この分からないを逆に捉えると、夫婦であれ、恋人同士であれ、兄弟であれ、友達であれ、互いの気持ちを理解し合う事(そう努力すること)が、何より大切なこと、と、言うことになる.