速水が定時に家に帰っていたのに、田口は驚いた。しかも、田口を無視して、ひたすら鍵盤を叩いている。その曲は何やら田口にも聞き覚えがある。
「…速水。それ何ていう曲?」
「ああん? 君を乗せて。ジブリの曲」
つっけんどんな声で答えた速水は、くそっと言うと、また、鍵盤に目を向けた。こんなとき、田口は黙っている。というか、口など挟める雰囲気はどこにもなかった。
鍵盤に向かう速水は、近寄るなオーラをまき散らして、自分だけの世界に没頭している。その鬼気迫った様子から、田口は、また、小児科か何かのボランティアを引き受けてきたなと思った。速水のピアノの腕はセミプロ並みだが、普段は滅多に弾くことがないため、こんなときにはそれこそコンクールに出場するのかと言わんばかりの練習量だ。しかも、その集中力は半端でない。
初見で弾いているのだろうが、何度も繰り返される曲は弾くたびに滑らかになっていく。そして、ようやく、納得のいくぐらいになったのだろう。
「今日の目標終了」
と、速水がパタンとピアノのふたを閉めた。
「お疲れ」
田口が言うと、
「何で、毎回こんなのが俺の所に来るんだよ。面倒くせ~」
と、ぼやく。
「でも、弾くたびに曲になっていくから、凄いと思うぞ」
「まあな。けど、テンポがばらばらだから、まだまだだな。後で、お前歌えよな」
「え?」
「伴奏なんだから、歌がないと、どう弾くのかわからないだろうが…」
「それはそうだけど…。お前、自分で歌えないのか?」
世の中には弾き語りをするシンガーも多いではないか。と、田口は思う。
「ばぁーか。俺はそんなに器用じゃない。だから、歌担当は行灯」
そう断言した速水は楽譜を田口に押しつけた。それを見た田口は、おたまじゃくしの羅列にがっくりと肩を落とした。自慢じゃないが、楽譜を読むのは苦手だ。速水のように、楽譜だけでメロディを口にできるなんて、ほど遠い。呆然としている田口に、
「何度も弾いていると、嫌いになる曲って多いんだけど、これはそうならないところが凄いよな。歌詞も何度見てもジーンってくるしな。恐るべし、ジブリ」
と、速水は言い放つと、アカペラで『君を乗せて』を歌い始めた。
これは私個人の今の体験です。ちなみに、私の伴奏は小学生80人ほどが相手です。でもって、指揮者がグランドピアノの位置からは見えないので、横にカウントを取って貰う後輩を配置してあります。じゃないと、お互いに暴走してしまうので…
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