「…あの、お茶です…」
「ああ」
若い女性が頬を少し赤らめながら、はにかみつつ湯飲みを男の前に置いた。大会本部の一画に目立つオレンジ色のジャケットを着た男がいる。背中には『東城大学医学部付属病院救命救急センター』と書かれている。胸の刺繍は『救命救急センター長 速水』とあった。
なぜ速水がここにいるのか。簡単に説明しよう。
桜宮市が市民マラソンを実施するに当たって、医療スタッフとして多くの医療機関に協力を要請した。当然、東城大学にも。でもって、東城大が誇る救命救急センターは緊急の場合の即戦力として配属されることになった。
そのため、センター長の速水は大会本部に待機。というのは、表向き。市長が日頃の功績をたたえて、速水を招待したというわけだ。
速水にしてみれば、こんなときに招待するな。と断って、オレンジで待機するつもりだった。が、腹黒狸に『政治家には恩を売りまくるのが得なんです』と言い込められ、今に至る。狸は利用できるものなら、何でも使う。さすがに、病院長には速水も逆らえない。
めんどくせぇ。誰か倒れないかな。
不謹慎にも、速水はオレンジに帰る口実を探していたりする。なので、極限まで不機嫌オーラを放出し、近寄るなモードだった。が、速水は見た目とっても鑑賞に値する男だ。大会本部にいる女性たちは、ちらちらと視線を向ける。いくらやる気がなくても、格好だけは災害現場での戦闘モードなのだ。しかも、参加者の速水の顔見知りの救命救急士などは、手を振って、目の前を走っていく。もちろん、緊急に備えたAEDを積んだ自転車部隊などは、速水を見て、にっこりしていく。現場からの絶対の信頼を受ける速水は、田口的に言わせれば、普段より2割増しいい男になるそうだ。
今日の労働は八時間きっちりかよ。オレンジにいたら、こんな暇、あるわけない。このままだと、俺の腕が鈍るぞぉ。何か来ないか。この際、犬でもネコでもモモンガでも、何でもいい。ケガして来いよ。
この茶もいい加減飽きた。コーヒー飲みてぇ。行灯のコーヒーはないのかよぉ。あーあ。行灯。昼飯、差し入れに来ないかなぁ。
どうでもいいことを、うだうだ考えつつ、速水はオレンジへのホットラインの携帯電話を首から提げて、ぼうと走るランナーを眺める。
さくらマラソンと銘打っているが、桜は咲いていない。もっとも、桜が咲く時期に開催するのは、気温が高すぎるし、転勤などで参加が難しくなる人がいるので難しくなる。
こんなんなら、参加した方が面白いんじゃないか?
アウトドア派の速水らしい思いつき。田口なら、絶対に考えないことだ。
一番短いのは5キロか? これぐらいなら、何とかなるかもしれないな。体力には少し自信あるしな。
自画自賛の将軍だ。しかし、彼は練習時間をいつ捻出するのまでは考えていない。もっとも、真剣に参加しようとは思っていないので、こんなものだろう。
それより、ここに居るのは寒いし、めんどくせぇ。今から、自転車で走ったら、暖かくなるし、気分転換にもなるし、一石二鳥じゃ?
一カ所にじっとしているのが、苦手な将軍だ。しかも、ここは屋外。近くにストーブはあるが、けっこう寒い。もちろん、背中には使い捨てカイロがしっかり貼ってある。田口が、「外での待機なんだろ。もう年なんだから、無理するなよ。でもって、寒さは大敵だから、これ貼っとけよ」と背中に二個貼ってくれた。
行灯、来ないかなぁ。いや、行灯じゃなくて、ありすでもいい。そうだ。行灯よりありすのほうが小さいし、暖かいから、湯たんぽ替わりにできるよな。
ひたすら、現実逃避をする速水だった。それを遠巻きに眺める桜宮市の職員たちは、“速水先生はとっても気難しい”と認識したのだった。