格闘家として、若くして一世を風靡した朝倉未来氏は、『Breaking Down』というケージ内で一分間で決着をつける、新格闘競技をあみだし
日本中の血の気の多い若者たちの間に一風を巻き起こし、それに参加するべくオーディション(審査)に出てくる、チンピラ風なあんちゃんから
元ヤクザ、喧嘩自慢、空手家、元ボクサー等、ぞくぞくと登場するオーディション風景を動画にして流すものだから、スイスに住んでいる
血の気の多いジジイまでも熱い眼差しで動画を観たりしている中、『こっちら命懸けで、来てんのャ〜』というセリフは、
まぁ、やんちゃなガキ共の格闘技オーディションだけに、常套句・・・と受け止めて、別になんとも思わなかったのだが、
今日見かけた、おなじ朝倉未来が主催する不良が登場する映画のオーディション風景で、役者志望の若者が『命懸け』という言葉を口にした時
私は、自分がやってきた禅の修行には、一度として『命懸け』・・・という深刻な状態になったことがなかった事に思いが到ったのだ。
それって、一重に私の意志薄弱・・・が原因とも思うが、よほど剛毅な人でなければ『命懸けの坐禅』・・・というのは実際にはなかなか難しいものだと思う。
かりに、不惜身命の坐禅をするぞ!・・・と意気込んでも、数分後には頭の中は、蚊の大群に押し寄せられる如く、妄想が沸き上がり、
そのまた数十分後には足が痛くなったりする。 そもそも『坐禅』には『命懸け』などという『お前さんの妄想』など邪魔なだけなのだ・・・。
というようなことが、解ってくるから、私の場合は『命懸け』というようなことは一度も考えたことはなかった。
馬骨論的には『命』には、それが宿る人間に『命の有機的働き…』に目覚めるべく働きかける『意伝子』による『命懸け』であり
本人が『命懸け』と意気込むまではいいが、結局はその『命の働き』に耳を傾けるしか、我々にはなすすべが無いのだと思う・・・。
その意味では『命懸け』は、我々がその使『命』を果たすかどうかの『賭け』でもあるわけで、確かに『命懸け』ではある。
しかし、3年間をメドに修行に来ている、実家が寺で将来プロの坊さんになる若い雲水達は、12月に行われる臘八接心という期間は
それこそ『死物狂い』の坐禅を要求され、実際にそれで一皮むけたような雲水も見かけたのも事実だ。
道元禅師の言葉を待つまでもなく、肝心な事は『佛の方より行われる・・・』と、最初から思っていた私は『命懸け』とは思わなかったが
私の禅修行中、一人の若き雲水が私に観せてくれた『働き』・・・というか、彼が直日(僧堂のリーダー格の者)のときの、威風堂々の風貌が
ある日、侍者(世話係)となって、我々にお茶を注ぐときの別人の如き仕事ぶり・・・は、私に『随所に主となる』というものが
どういうものであるのか、身を以て示してくれた風景は、私にとって一生忘れられないモノとなっている。
『(両)手に聞け!・・・それがお前に幸せを与えるだろう』 最近アチラコチラに見かける Do it yourselfの店の広告
一瞬、いよいよ『隻手の声』の公案がスイスにまで来たか!・・・と、電車の中から慌てて一撮した風景