やはり、秋の訪れ・・・というか、『音連れ』というべきか、こんなテーマが気に鳴るというのは … 。
Aiの進歩が著しい昨今、SF事であったロボットが一家に一台・・・という時代が目前に迫るなか、
各分野の科学者たちの間で、人間の『意識』の研究が火花を散らす勢いで研究されているのを脇目で伺いながら
私の研究所ではその点どうなっているのか?
進捗具合を我がBi(我が馬骨の愚脳)に尋ねると、あいも変わらず答えは『観音』ということで、
その心は?と、尋ねたところ『考えるな、漢字ろ!』ということであった。
つまりは、漢字方程式で『意識』を解きなさい・・・ということなのだが、
果たして、この『意識』という言葉をよく観察すると、どちらの漢字にも『意』・『識』・・・と『音』の字が観られるではないか。(今更?)
この根底には、1500年前(?)インド仏教の真髄が中国に伝わる決定的瞬間というのが『観(世)音』という漢訳に集約されたわけで
そこから『意』の字が、『識』の字が生まれたという経緯(いきさつ)を馬骨は観るわけで。
『人間の意識の根底には生命の『音』が意識として織りなされている』・・・と、かの観音菩薩は『観音』していたのだ。
であるから、仏教と科学の邂逅というのを『波動』に観るとき、それは決して偶然ではなく必然であったであろう・・・。
瞑想をしない科学者、科学をしない瞑想者・・・等は、東洋の祖先が血の滲む思いで書き残した文字、『観音』に耳目を開かなかった。
浮くものを 上下に映す 水鏡 永遠と瞬時の 境目みせて ・・・一撮