映画マトリックスが公開されたのが、1999年・・・だから、今年2024で25年の歳月が流れたわけだ …
北鎌倉、円覚寺を退覚したのが、19991年で足掛け10年(居士禅なのでスカスカ禅ではあったが)に区切りをつけ渡欧し、
ジュネーブでガイド業をしている頃、この映画を私は観たことになる。
禅者の端くれとして、一般の人々とはまた違った視点でこの映画を観、ある種、衝撃を受けたものである。
私にとって、映画マトリックスは『大いなる公案(禅問答)』となったが、禅を知らない人々にとっても心が揺さぶられた作品であったであろう。
二十歳の頃、私は鏡を観ていて、鏡の向こうにもう一人の私がいて、徹底『自己肯定』を促す会話の時(とき)を持った時期があるが
それは幼少の頃、ほぼ毎日のように2〜3km離れた養母と実母の家を、月を伴った夜道をあれこれ自問自答しながら通った経験の延長上の事柄で
鏡の向こう側の私との会話は、当時の私にとって別に特別な事とも何とも思っていなかった・・・。
それが禅修行を始めることで、まさにその事が俎上(まな板)に上げられ、振り出しにもどり、新たに『疑問=公案』として向き合う事になったのである。
何も疑問を持たない若き日、すんなり行けた次元は、今度は鏡の前で油汗を流すガマ蛙と堕していたが、それは本当に分かる為の『通過儀礼』ではなかったか。
誰しも鏡を観ているとき、ふと鏡の向こうの自分に気が付く自分がいて、『あれっ?!』と、思った経験はあるはずで、
そうした漠とした想いのなか、映画『マトリクス』が登場し、『今いる世界は仮想現実なのだ』と言うものだから衝撃を受けたわけだ。
ITの革新的発展にともない、『仮想現実』的なるものが、私達の日常生活上にますます割り込んでくるわけであるが・・・
『仮想現実』とは何か? 『現実』とは何か? ・・・そのへんのことを、しっかり把握しておかなければ、それこそ浮世に流されてしまうだろう。
『SF』には二つある。 一つは『Science Fiction』 もう一つは『Silence Fiction』の禅(瞑想)で、
共に『仮想現実』、『現実』を提示して観せるが、 IT系が観せる『仮想現実』は目下の処『似て非なるもの・・・』感が私にはあり
量子力学系の『SF』は『禅SF』に限りなく接近、遠くない何時の日か、この『二つのSF』は融合するのだろうか。 ブッダ!!
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