一昨日は東大寺を満喫したので、昨日は隣の二月堂を訪ねようかと、いつものモーニングセットを食した後に出かけたが、あまりの北風の寒さに2人とも根をあげ急遽、露天風呂もあるという奈良のスーパー銭湯へ!
たぶん8年ぶりに、よそのオツサン等と素裸でガン首並べて『湯』につかった時、フェイスブック友の一人が、私のブログを読んで『日本の冬の愉悦・・・』と宣ったその最高級ワード『愉悦』が『湯悦』とシンクロし、日本文化の色界のエクスタシ−が極まって空界に反転するであろう深淵なシステムを垣間見た気がして、『銭湯は銭湯に非ず、ゆえに銭湯』の即非の論理・・・に深くうなずいたのである。
改めて考えてみると、私の養母宅にも実母宅にも風呂がなく、特に6歳まで私の面倒をみた弱視、後に盲目になった養母の一日のローテーションに銭湯へ行くことがあり、私にとって銭湯に行く事は生活の一部としてあまりにも当たり前の事であったので、こんにちまで『銭湯』に関して特別な思いを抱くことが無かったが、『道産子』であり同時に『銭湯子』であった私の中で『銭湯』という日本文化が私に与えたであろう影響の多大なる事に、今更ながら思いが及ぶのであった。
そうした意味では、先日『饅頭、まんじゅう』と騒いで見せたが、『湯悦』の愉悦は『饅頭』の及ぶところではなく、比較することすらバカバカしい別次元の愉悦であった。
そして湯上がりの帰り道に、相方と二人で餃子の王将で、餃子定食を食いながら思ったのは、こんな簡単な『愉悦』が、なんでスイスで出来ないんだろうか?と思った時、色界における日本文化の振幅の大きさに私は、あらためて気が付いたのだと思った。
今日2月20日は初めて法隆寺と中宮寺を訪ね、『愉悦』について仁王様に尋ねた図
もちろんお薦めです(笑)
暖かくなさって、良い旅を!!