釈尊の『悟り』は、人間の進化の『究極の姿』…であった、と馬骨は信じている。
その姿は座ったときには『坐禅』となり、立ったときには『合掌』となって2500年の歳月と
インドから日本までの距離を経て伝えられ、今に至っている。
仏教とは、私達人間が『悟り』に到るための教えであって、仏教徒であるために『悟る」わけではない。
であるから、仏教があみ出した『禅』仏教=『人”間”工学』によって、いかなる人間も『悟り』を得ることは本来的なことである。
以上を前提として、あらためて『人”間”工学』的に『合掌』を考えるとき、そのあまりの重要さに
これまで仏教徒として慣習的に漫然と『合掌』していた自分に呆れると同時に、
誰も『合掌』の真義について語っていない(書物にも見たことがない)…ことが不思議でならない。
『悟り』は『身心一如』なくしてありえない。
その身体と心を結ぶのが『息』と解したとき、『合掌』は調身・調息・調心を一重に体現した姿であり、
その『合掌』を天上から観る我が眼こそ『不二』を観ている観世音菩薩の眼にほかならない・・・と、いつの日か気づく。
『合掌』こそは、随所に主となる自己実現であり、『仏道無上誓願成』なのだ。
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