拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   もう一つの落語 『拈華微笑』 by 惨舞亭馬骨

2023年03月03日 | 東洋自分なり研究所

  東洋自分なり研究所の最大の課題である『拈華微笑』について、新アングルによる解釈、特に『オチ』の重要性がこのほど判明し

  それを語るに当たり、わたくし馬骨の居士名にオチ名つまり落語家の亭号名を名乗ることに閣議決定!

  名付けて『惨舞亭 ざんまいてい 』と申す。

 

  思うに、これまで馬骨は『拈華微笑』研究において、ひたすら『拈華』の義ばかりに重きを置いていたことを

  先日、山田洋次監督のインタビュー動画にて、『人生においていかに笑いが重要であり、それを映画で表現することの難しさ』…の話

  を聞いて、『拈華微笑』の『微笑』について、ほとんど顧みていなかったことを反省、改めて課題として研究してみた。

 

  昔から仏教は、『諸行無常』・・・よって『一切皆苦』。 でもって『諸法無我』→『涅槃寂静』という分けのわからない

  四文字熟語で人心を脅かし、悲壮感のドツボに叩き落とす・・・観が漂っていた。

  そのせいか、人は葬式時のみ僧に頼り、それ以外は抹香臭いと仏教を自己の生活圏から遠ざける傾向が今現在もあるのではないだろうか。

 

  私自身は、そのような素振りを『チラッ』とも見せない、『男は黙って… 』の広告に乗せられるように禅門に入ってしまい・・・

  『据え膳食わぬは男の恥』の思いで、気がついていたら『坐に着いて禅』していたゆえに『諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』という

  分けのわからん仏教原理すら10年間の禅修行中知らずにいたくらいであった。

  『坐禅』で実行する『無』というのは恐ろしいもので、実にそのまま『施無畏』であったのだ。

  世の中には、このような幸運な形で仏門に至った者はそう多くはないだろう。

  

  しかし、6世紀の起こった新興宗教『禅』は、当初こそ達磨がギョロ目で人をにらみつける形相で、人を寄せ付けない観があったものの

  蓋を開けてみれば『拈華微笑』という、釈尊から最初の弟子への『微笑の正伝』をベースにした笑いのある明るい仏教であることを証していた。

  仏法は何にせよ、『腑に落ちる』よりは『不二落ちる』ことが重要で、『寺』の字が表す『土+寸=ドスン!』となる『場』であることを認識せよ。

  禅では『呵々大笑』する者もいるようであるが、それではまだまだだ。 

  弥勒菩薩如き『微笑み』の『オチ』あってこその『落語』であり『正伝』であろう。

        

         我が相方は、目下その修行中・・・



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