拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
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  観『自在・音』の重ね合わせ

2023年05月24日 | 東洋自分なり研究所

  今、流行の言葉といえるだろうか? 『重ね合わせ』或いは『もつれ』・・・などなど

  こういった科学の最先端、『量子力学』用語を用いて仏教を説明する人が増えたようだが、もしかすると馬骨もその一人か。

 

           

 

  馬骨はだいぶ以前から『般若心経』に登場する『観自在菩薩』が玄奘三蔵法師(7世紀)がサンスクリットから漢訳した菩薩名に注目していた。

  というのは同じ菩薩名を、彼より250年前に鳩摩羅什(4世紀)が『観世音菩薩』と漢訳していたからだ。

  そして日本では『観世音菩薩』を略した『観音』様という愛称で非常に庶民に親しまれている現象がある。

  その昔、この二人の優れた仏教徒が同じ菩薩を指して『観世音・観自在』と訳した事実は非常に重い・・・と馬骨は思っていたが

  そのことを指摘する仏教徒や仏教学者を私は知らない。(単なる勉強不足だろう… )

 

  量子力学で用いる用語『重ね合わせ』がどういうものか、私には正直理解できないが

  般若心経の菩薩名『観世音と観自在』の『重ね合わせ』については、自分の中で徐々に解明しつつあるところだ。

         

  この図は、『悟りは郷里(さとり)』という馬骨論の根拠となっている『郷』の字の解字をベースとしている。

  『観音』という境涯では『観音鏡』に映るもう一人の自分(真我)を観ること、『真の自我が在るを観る=観自・在』が先ずあって

  その後、『観世音』(インプット)・『観自在』(アウトプット)の菩薩作用が作動するのでは・・・。

  私にとって『観る私=観られる私』の次元の『観』の存在する場が『間』で、人間と称する『間』の原点がここにある事を確認する。

 

  そういった意味では、有名な白隠禅師の公案『隻手の音声』の先に『観音』が在り、それは仏教にとって重要な意味合いを持っているように思う。



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