先週、私の義母・・・相方の母親が93歳の誕生日をむかえた二週間後に他界した。
安らかな永眠に、相方も彼女の姉も安堵の胸をなでおろす…感。
残された92歳になったばかりの父親を心配したが、覚悟が出来ていたらしく事態を受け入れている様子に、これまた安堵。
私は義父母が歳を取って、老いていく様子を見守るなかたくさんの事を学んだと思う。
義母の死期をむかえ、私は『寿命』という言葉について思いを馳せていた。
知恵袋によると『「寿命」とは、天から授かった命を、その運命のかぎり生きたという意味です。 不慮の事故や災害、戦争、犯罪などで命を奪われることなく、
天から授かった長さを生きた。それはなかなかめでたいことなのです。そういう命を「寿命」というのです。
不慮の死は、「寿命が尽きた」とも「天寿を全うした」ともいいません。』
・・・しかし、そのように説明する気持ちは解るものの、本当にそうであれば『寿命』をまっとうする人はそう多くないのでは? という疑問も沸く。
馬骨流に適当に自己解釈すると、『寿命』という言葉は『無量寿経』(5世紀に漢訳)あたりが語源となっているのではと思い、
勝手に『仏語』と決めつけると、『人がこの世に生を受ける事は、ほとんど奇跡である』・・・という意味で『寿命』とすれば
どんな形で亡くなったとしても『寿命』は『寿命』である・・・と解釈すべき『命』であるように私は思う。
『老いる過程』を観察するに、仏教で説く『一切皆苦』という救いようのない法則が高齢期に一気にやってくる様子に、私は改めて驚いた。
『一切皆苦』の代表が『生老病死』であるが、これにまつわるいろいろな苦しみが高齢期にどっと押し寄せてくるようなのだ。
であるのに、仏様は人の命を『寿命』・・・と言い表してくださる。 ここに救いの道があるような気がする。
実際『生老病死』を転機にして『諸法無我』に目覚める人も少なくないのではないだろうか。
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