扉への道

泉明 香鈴(せんめい かりん)申します。
香り善き、鈴音(りんね)を拠り所に、「今」を明め「ここ」に在る

疑問と探求【壱 】

2016年06月28日 16時40分18秒 | 疑問と探究 編
「大いなる存在」はなぜ?私たちに高度な自我、思考を与えたのか?








この私の思考がどこまで解釈してくれるかです。

さて、考えていきますよ。



手始めに、思考とは?自我とは?

私たちが誕生して最も最初に感じるストレスである「他人とは別物」と言う逃れられない「苦」から始まる事が自我であり、これから訪れる「苦」に対応していかなければいけない為の道具が言わば思考である。

ただ、私たちはその思考のを使いシンプルに対応すればよいものの、あーでもない、こーでもないと余計なことまで考えて、自我をどんどん増やしていくことになってしまっているのです。
言わば、思い込みと自分に対しての制限を自分でかけ、それが「私だ」と言っている状態なのです。


機能不全と言うことです。


本質は、私であって私ではなく、「本当の私」は思考や自我を観測している存在なのです。

本来の私に気付き体感することで思考や自我に捕らわれず、道具として使う事ができ使い終え終わったら片付けることも出来るのです。

私たちにとって思考や自我は、この世に生まれ成長する過程において内側からのコミュニケーションが取れない代わりの与えられた機能なのです。

常に「苦」を感じている人や自我に捕らわれている人は全て、機能不全なのです。

付け加えると、感情も同じ事をで自我の機能不全が起こす状態であり、風邪を引いたときに咳や熱がでるのと同じ事をである。