『強者と勝者とが同一とは限らない』
全ての勝負事に共通する原則ですが、 同じ選手、同じチームでもモチベーションやコンディションが同じとはいえず、その時々で少しずつ違っているので『勝つ時』もあればその反対に『負ける時』もある。
『必ず強い方が勝つ』なら、そもそも競技して勝負する意味が無い。
明らかに弱い方が勝つことが、時々確率的に起きるから『競技』や『ゲーム』や『賭博』が成り立つ。
ですから国際サッカー連盟(FIFA)世界ランキング45位の日本でも、ランキング1位のブラジルに100回ぐらい試合すれば何回かは必ず勝つことが出来るものです。
日本のサッカーも自国開催(日韓共催)時には個々の選手のモチベーションが最大限に盛り上がったので3勝も例外的に勝つことが出来たが、何時もの海外開催のワールドカップでは今まで一勝も出来ていなかったのです。
毎回、1試合で得点が最大1点止まりなので引き分けが精一杯で、勝てなかった。
南アフリカでの対カメルーン戦で日本の勝利には外国の新聞の中には『日本のHONDAが快走』などの見出しもみられたようですが今回は、試合開始前の国歌『君が代』斉唱時に行儀の良いことで知られる日本の選手の態度が、何時もとは明らかに違っていたのです。
此れが幸いした。
『小石は幾ら時間が経っても巌には成らない』
普通は、コケが生えた大きな巌が時間が経って、風化してばらばらになって小石になってしまう。
小石や砂が堆積して出来た礫岩と言うのも確かにあるが、これは岩の中でも一番弱く時間が経てば元の小石や砂に戻ってしまう。
ですから君が代の歌詞の『小石が巌になる』との意味は『ありえない奇跡的な出来事』の意味ではないでしょうか。?
それなら国家の武装を禁じた憲法9条なんかは、国家の根本的な命題(国家の根本)である『国家の暴力』を否定しているのですから、これはもう『さざれ石が巌に成る』君が代の歌詞の意味とは非常に近い。(国家の本質とはこの『公的な暴力』のことであることは剥き出しの暴力に走るイスラエルや北朝鮮のようなプリミティブな国家の行動が証明している)
そして何かの奇跡が起きないとFIFAランキング19位のカメルーンには45位の日本が勝てる見込みは極めて少ない。
『それにしても君が代は不思議な歌である』
世界の国々、例えばフランスの『ラ・マルセイェーズ』やアメリカの『星条旗よ永遠なれ』は実に前向きでもあるが外向きにも攻撃的で前進する歌であるが、『君が代』は内向きで決して攻撃的でなく自己完結型で行進曲ではなく『その場にとどまる』歌なのです。
色々な意味で『君が代』は日本国の国歌として考えると世界的に見ても実に不思議な存在で、何しろ『日の丸』大好きの日本の街宣右翼が軍歌を流す事はあっても『君が代』を流すのを聞いた試しがない。
『君が代』を歌うことが今以上に強制されていた太平洋戦争中でも、万歳突撃の時とか集団自決の時にみんなが『君が代』を歌いながらなんて、聞いたこともない。
この理由は、サッカーの中田英寿元選手も言っていたが、『君が世』のメロディを聞くと誰も彼もが『気分が萎える』『気持ちが落ち込む』為らしいのですよ。
『君が代』には、聞いた者たちの気分が落ち込みモチベーションが確実に低下させる不思議な作用があるようなのです。
これを利用しない手はありません。
ワールドカップなど国際試合などでは試合開始前の国歌斉唱の時に日本選手は耳栓をして相手国側選手だけに聞かせるのです。
頭の固い日本サッカー協会が採用しそうにはありませんが、良いアイデアだと思うので岡田監督に誰か推薦して下さい。
今回、予選の第一試合でカメルーンに1対0で勝ったのは良いが喜んでばかりはいられません。
今までのワールドカップでは自国開催(日韓共催)の時を除けば、すべて一大会(予選3試合)で1得点しか取れないのが日本の今までのサッカーの歴史です。
今回一点で一勝するとは実に効率的な試合運びなのですが、何時もの1大会1得点だとすると、カメルーンより強いオランダやデンマークとの後の2試合は完封負けの可能性が高いでしょう。
何故予選の3試合で合計しても1点だったかですが、これはもう『君が代』のモチベーションを確実に下げる効果が悪い方に働いたのです。
今回日本チームはワールドカップの試合前の『君が代』斉唱時に、選手みんなでスクラムを組んでヤケクソで歌っていましたよ。
これが良かったのです。
学校の卒業式などで子供達に綺麗に整列させて背筋をまっすぐに姿勢よく礼儀正しく『君が代』を歌く事を強制する文部省は大反省して頂きたい。
あの『君が代』の歌詞やメロディは、みんなでスクラムでも組んでヤケクソで歌ってちょうど良い程度になる、不思議な歌なのです。
『忌野清志郎とロック君が代』
1999年に反戦、反体制の忌野清志郎がパンク・ロック風にアレンジした『君が代』を収録したアルバム『冬の十字架』が大手のポリドールから発売される予定だったが、同社が発売を拒否、何度も発売中止騒動に巻き込まれる。
2003年4月日本武道館のコンサートはTOKYO FMなどJFN加盟する全国のFM各局に放送されたが忌野 清志郎は予定になかったロック『君が代』や『あこがれの北朝鮮』などを歌い一部その部分が放送されなかった。
世界一短く、何処の国の国歌とも違い気分が萎える陰気な『君が代』が忌野清志郎という反戦ロッカーによって見違えるように素晴らしいモチベーションを上げる歌に変身しているから不思議である。
忌野清志郎バージョンの『君が代』なら、何も文部省や石原慎太郎、米長邦雄が強制しなくても子供達は喜んで歌うであろうと思うが、誰も歌う気がしない今のままでないと気に入らないのだろうが、困ったものだ。
義務教育での義務『君が代』が誰彼の例外なく気分を萎えさえモチベーションを下げるので、誰にでも嫌われても当たり前だと何故気が付かないのかと不思議でならない。
それでは何時まで経っても『君が代』が街宣右翼にまで嫌われる今の情勢に変化は生まれないだろう。
国家等が権力を使って、一方では国歌として『君が代』を歌いなさいと強制しているが、もう一方では清志郎が歌う『君が代』を歌ってはいけません、聞いてもいけませんと禁止するダブルスタンダード。
忌野清志郎曰く、
『歌というのは誰かに歌えって言われて歌うものじゃない。』
『誰も「歌うな」とやめさせる権利はない。』
『歌いたいやつが、歌いたい歌を、歌いたいときに、歌いたいように歌うんだ。』
『昔にあった、君が代ブギ』
今のように北朝鮮バッシングの結果、世間全体が極度に右傾化した時代では考えられないかも知れないが『朕はたらふく食ってるぞ。汝臣民飢えて死ね』などというプラカードが共感、支持されていた時代には、パンク・ロックの清志郎以上に過激な『君が代』のブギウギバージョンが歌われていた。
山岳会の納会などの酒席で全員が盛り上がって来たところを見計らって『斎戒沐浴、皇居遥拝、君が代斉唱』などといいながら直立不動で『き~み~い~が~よう~は~』と歌いだす。
『ちよに~い~やちよ~に』辺りまで来る頃にはその場の盛り上がっていた雰囲気は10度Cは下がり完璧に白けきって今までの陽気な気分が一変する。
十分にその場が萎縮し一気に盛り下がったところで、ありったけの声で絶叫する。『イエーー!!』
後はブギウギのリズムで踊り狂いながら各自があらん限りの大音声で『さざれ~いし~のブギウギ♪』『踊れテンちゃん♪』『歌えテンちゃん♪』『コケのむすまで♪』と歌いまくるのですが、最後のしめがことのほか難しい。
予めアサヒビールの王冠を二つ用意して隠し持っておく。この王冠には中央に大きく★マークがあるのですよ。
踊り歌い終わる時に後ろ向きになる。この時にアサヒビールの王冠をまぶたの上に被せてから一気に振り返り両手を大きく広げて見得を切ると、両目が★になっているので大概のものはあっけにとられ肝を潰す。一人でも良いが大勢で演じると効果も倍増する。
この『君が代ブギ』は、今でも誰か数人が行えば十分に宴会用の一発芸としては通用すると思うのだか今では誰も演じないらしい。残念。
イスラム文化圏のトルコで、受け狙いで全裸になって逆立ちしデンデン太鼓を股間(肛門?)に挟んで鳴らしたお笑い芸人江頭に対してスタジアムに集まった数万のトルコ人観衆が激怒して暴動一歩手前になっている。
イスラム圏ではないが、これほど世の中が病的に右傾化した日本では、『君が世ブギ』を実際に公開の場で行えば何か問題に成るかも知れないが各自の責任であり、私には何の責任もないことは言うまでも無い。
今の日本の主要な宗教は、仏教でもなく神道でもなく古代のアニミズムでもなく、ましてや結婚式の風俗程度のキリスト教でもなく間違いなく『科学』を絶対真理ととして信仰する『科学教』ですよ。
宗教では信者以外から見たら、『こんな下らないものを』と思えるモノが御神体である場合があるが、
信者達にとっては、現代科学の産物であるネットが生んだwikipediaなんかは『科学教』の天使なのでしょうね。
つい最近までWikiを知らなくて自分の記憶だけで書いてきたのですが、・・・・
いや~ア。こんな便利なもモノが世の中にあるとは。
私は感激しましたよ。余りの便利さ、安直さに。まさに情報革命です。
疑問に思う人さん、とんかつソース程度とWikiを馬鹿にしてはいけません。
こんな便利なツールは昔はなかった。世の中は進歩しました。いや~あ、素晴らしい。
昔は『知識』と、『知性や経験』とはある程度は連動していましたが、今は違う。
しかも以前は、その知性や経験を得る為には長い時間と努力が必要だった。
だからある程度以上の高級な『知識』は、一部の知識層が独占していたのですよ。
一種の階級社会ですね、
ところが今ではWikiのお陰で一瞬で『知識』手に入るし、しかも此処が重要だが、知性や理性、経験がなくとも誰でも『知識』が平等に手に入る世の中になった。
これを革命と呼ばずして、何を革命と呼べばよいのでしょうか。こんな便利なものはない。
ただ、簡単に手に入るものには安物が多いし偽者も混じる。
便利にはなったは良いが今度は、使い物にならない安物や偽者を選り分ける作業が、絶対に必要に成ってくる。
ところがこの作業がエラク手間がかかるし、可也の高級な知性と経験が無いと出来ない。
そこで以前より知性や経験が必要に成ってくるという不思議がおこる。
ここに、『知性や経験がいらないものは知性や経験がいる』とか『便利なものは不便だ』という新しいパラドックスが生まれるのです。
それなら多分華僑で、苗字から中国の少数民族出身であろうと推察しますが、
『撲滅 中国共産党』とは素晴らしいスローガンであると思いますが 、日本国内では残念ながら出来ることに限りがあるでしょう。
タイトルの『撲滅 中国共産党』ですが、それを資格があるのも行う事が出来るのも中国人だけであろうと思われますので、私も日本人の一人として微力ながら、中国を憂う中国人らしい質さんのご活躍を陰ながら期待しております。
しかし質さんは日本の伝統や礼儀や文化を学ばないと折角の『大望』も、単なる妄想妄言と受け取られかねませよ。
日本では初対面で挨拶抜きでは礼儀知らずになるます。
またネットでもコメントも、記事の内容と何の関連も無い書き込みは『宣伝』か『ゴミ』となり、普通は誰も相手にされません。
同じ捨てハンコメントを何度も違う記事に連続投稿する行為も低級な恥ずべき行いで誰からも尊敬される事は無いでしょう。
中国とは違い日本国では目的が何であれ恥ずかしい行為ですよ。以後注意して、謹んでいただきたい。
もしも投稿者が日本人であるとしたら、当ブログでは無記入や、『通りすがり』とか『日本人の一人』などのような個人を特定しないHNは無記入と同じであると看做して即座に『塵として削除』しているローカルルールを作っています。
名前の欄が『質問』では無記入扱いとなります。
何でも結構ですが、適当なNHを考えてから投稿してください。
中華の侵略を排除し、防衛力を強化する政党はどこでしょうか
というか、ソースは複数確保して、クロスチェックするというのは、メディアリテラシーの基本の様な。単一のソースに頼ると、エライ間違いを犯しますよ。
なので、私の家の冷蔵庫には、とんかつソースとウスターソースが確保してあります(という寒いギャグで締めてみます)。
ですから>『現実に「さざれ石」というのが全国各地にあるわけなんですけどね。』
などは、実は当たり前なのです。
『君が代』の歌詞の中にある『細石からできた巌』でも、実は全国各地の主に神社や、たまにはお寺に祭られて居るのも事実なのですが、岩質は色々ですが大概は各種の礫岩のようです。
この記事でも小見出しには『小石は幾ら時間が経っても巌には成らない』となって居ますが、
記事の3行目には『小石や砂が堆積して出来た礫岩と言うのも確かにあるが、これは岩の中でも一番弱く時間が経てば元の小石や砂に戻ってしまう。』と書いてあるのですが残念ながら読んでは頂けなかったようです。
ウィキペディアですが、何かの日付を正確に知りたい時などは非常に便利で、私も横着したい時は時々は利用していますが、記事の内容については玉石混交で正しいとも間違っているとも一概には言えまえん。
記事の信頼度ですが、『そのように主張している人がいる』と考えるのがちょうど良く、無難なようで、丸まる信用すると大失敗する事がある。
記事の内容には多くの間違いが含まれていますが、知識のある真面目な人が間違いを幾ら訂正しても即座に逆訂正されるのでウィキペディアとはギリシャ神話のシシュボスの石であるといわれています。
険しい山の上まで重い石を運び上げるのですが、頂上に着いたとたんに岩は元の谷底に転げ落ちてしまうのです。
現代の『ウィキペディア』とは、古代ギリシャのオデュッセイアの永劫の刑罰を受ける『シシュボスの神話』と同じだとの説もあります。
ですから、あまりウィキペディアからの引用は慎んだ方が無難なようです。
小石の集まりが雨にうたれて石灰成分が溶け出し、コンクリート状に固まった石のようです。
ほんの少し注意して見さえすれば(インチキの中身は)誰にでも分かります。
しかしそれが困った事に分からないらしいのです。
私には一目で見えるのですが、多くの人には見えないのです。
天安沈没での確定的証拠などはその典型で、軍艦を沈没させた魚雷には絶対に見えない。
何処から見てもあれは不発弾にしか見えないし、調査団の出した公表文章も、私が書いた天安関連の文章の何十分の一の少なさで、具体的な部分は皆無である事ぐらい誰にでも分かるはずです。
よく分からなければ、手間を惜しまず自分で何度か繰り返して分かるまで読めばよいのです。
ところが鳩山や管首相や新聞社の論説委員までしているような知識も経験もあるはずの人物でもやはり見えないのです。実に不思議ですね。
ニセ科学とかりホーム詐欺とかねずみ講とかマルチ商法などと同じで『ネタ』はそれ程複雑な構造にはなっていなくて、説明されると誰でもが、『なんだそんな手口だったのか』と言う程度の簡単さですが、
奇術師の単純極まるネタがなかなか分からないように腕の良い詐欺師にかかると、人間の誰でもが基本的に持つ『真理の盲点』を突いてているので口で言うほどには簡単には見抜けないのですよ。
日本の行っていた20年間の財政再建(消費税増税などの大衆課税と法人税の減税とゼロ金利政策)が原因で、今のとんでもない800兆円の財政破綻が起きたのだと理解している人は極少ない。
日本は基本的に20年間も同じ財務省主導の財政債権政策を続けて今に至っているのです。それなら答えは既に出ている。
ほんとに不思議ですね。
詐欺や手品のネタを一目で見抜ける人と、説明されたら理解できる人と、説明されてもやっぱり駄目で、理解できないその他大勢の三種の人たちがいるのですが、管さんは三番目なのでしょうか。?
それとも分かっていて(官僚にだまされているふりをして)行っているのでしょうか。?いずれか、この二つの中の何れかでしょう。
ちなみに、木霊の宿る町ってサイトでは、消費税率は低いが、国税収入に占める割合は、既に20%であるとの指摘がされてましたね。
ていうか、消費税増税して、法人税減税して、しかも消費税増税で景気は落ち込むんだから、どこをどうやれば増収になるとの結論に至るのか誠に不思議でなりません。天下に名だたる東大の法学部をお出になられた、財務官僚様達の思考回路はどうなっているんでしょう。私大の学部生より馬鹿なんじゃなかろうか。それとも、東大出であるがゆえに、その程度でしか有り得ないのか…。
水からの伝言程度の可愛らしい話なら『ニセ科学である』と見抜けるが、この金融工学で武装した悪質なニセ科学に対しては菊池誠阪大教授を教祖とするニセ科学批判ブループは一言の批判も出来ないのですよ。
小学生には勝てるが、悪賢い大人相手では文句一つ言わないでは情けなさ過ぎる話ですが、水からの伝言などに引っかかる人は極少数ですが、サブプライムローンには世界中の大勢が騙された。
今度の財務官僚主導のニセ科学中のニセ科学である『消費税による財政再建』話ほど、日本経済を破壊した悪質なものもないが、アメリカ製の金融工学と大違いで中身が『水からの伝言』程度の御粗末な代物です。
何で管さんはこんなものに騙されたのでしょうか。?
何とも不思議な話です。理性的に判断したと言うよりも、これは財務官僚を『信じた』のでしょう。
あれは米軍のバグダット入城の時の不思議極まるフセイン象引き倒しと、バグダットにとどまっていた外国人記者の宿舎になっていたパレスチナホテルへの米陸軍戦車砲での攻撃の惨事の二つが全ても物語っている。
10人ほどのイラク人と米軍が広場のフセイン像を引き倒しているが人々は遠巻きにして眺めているだけ。
侵攻する米軍と共に取材している報道陣は大事な宣伝材料だが、それ以外の真実を報道する可能性のある報道陣は『敵』と認定して攻撃する。
アフガンでもカブール入城の前にタリバン政権時代からのアルジャジーラ事務所を空爆したのも同じスタンスから。
正しい報道とは、飴細工の様にいくらでも加工が出来るものだとアメリカは思っているのです。
チェイニーやラムズフェルドはひょっとすると違うかもしれないが間違いなくブッシュジュニアは自分は世の中の為良い事をしていると心底思っていたのでしょう。
間違う可能性は1%も考えてはいなかったでしょう。
小泉純一郎首相の秘書官だった飯島 勲が安倍晋三後継総理を評した言葉が面白い。
曰く、『世の中で一番困るモノは、やる気のある馬鹿である』
けだし明言である。
主観を現実に適合させるんじゃなくて、現実を主観に適合させる…大本営の参謀と同じですね。となれば、日本にとっての戦後処理は未だに終わってませんね。悪風を引きずったままです。
イラク侵攻は、マジに上手くいくと、プリミティブに考えてたみたいですね。フセイン独独裁政権は、腐っているから、民衆は諸手を挙げて、解放者であるアメリカを歓迎するだろうと。確か、ヒトラーも、ソ連は腐った納屋だから、蹴り一発で崩れると考えてたようですが。ブッシュの脳みそは、サル並なのでしょうなあ。
あと、これの元ネタって、どっかの貴族が山に出かけて迷った。そして地図を見て、我々はあの山の上に居ると言ったって話ですかね。
『川が正反対の方向に流れている』状態を想像して下さい。
目の前に客観的事実はあるのです。
それを(それでも自分の脳内の地形なり地図なりを正しいとして)『逆さまに流れている』主張している。
ですからこの状態を先ず想像してもらわないと話が噛み合いません。
勿論『権力闘争に関わる問題』が出発点ですが、別に財務官僚は『日本国の経済を無茶苦茶にする』心算は全く無いのです。
その反対に多分『良かれ』と思って主張しているのですよ。
ここが田中宇の主張と私の主張とが根本的に違っているところです。
田中宇は、如何見てもそれを行えば失敗する事が確実な『確信犯』的な行動には、何かの隠された『動機』があるであろうと判断して、『隠れ多極主義』であるとしている。
私の主張は極簡単です。何故確実に失敗する事を高学歴な知性も経験もある人たちが間違うのか。?
何かの目的(悪意)からでなはく善意から『信じている』のですよ。宗教的な信念のようなもので、まさに『川が逆流する』ですね。
伯爵さんは、中東やイスラムを少しでも知っているものなら絶対に失敗すると分かっていたイラク侵攻をブッシュ政権の閣僚達は何故止めな勝ったとお考えですか。?
イラク侵攻はどうしてはじまったのか。?合理的に説明できますか。?
日本のお馬鹿な軍事アナリストではなく中東とかイスラム教の関係者は全員が始まる前から正確に現在の状態を予想していたのです。
それに、残念ながら『冷静に考えれば、それ以外の別の判断が出るはずがない。』というような状況ばかりではありません。 しばしば、正しい判断をした人間が排除されることで、失敗は野放しになります。
ちなみに、財務省高級官僚の指導の事例はあくまで利権や癒着がからんでいる事象であり、「解釈とは別次元の権力闘争に関わる問題」であると考えます。
欧米社会でのパーティ・ジョークで何度となく聞かされた定番の話に、「沈没した客船の救命ボートで、誰かが犠牲にならないと全員が死ぬという極限状況が生じた。
英国人には『あなたこそ紳士だ』というと粛然と飛び込んで言った。
米国人には『あなたはヒーローになれる』というとガッツポーズで飛び込んだ
ドイツ人には『これはルールだ』というと納得した。
日本人には『皆さんそうしてますよ』というと慌てて飛び込んだ」
という小話である。
基本的に日本人くらい世間の目を気にする国民は無いでしょう。
この小話には続きがありフランス人(あるいはローマ人)には『飛び込んではいけない』と言ったら怒って自分から海に飛び込んだ。となっていますがフランス人に限らず日本人以外の国民ではこの同調圧力の強弱は大きく違っている。
欧米人は個々が自分の哲学や宗教的な確固とした哲学や世界観を持っていて、他人には容易に同調しない。
ところが日本人は自分の哲学を持っていないので簡単に他人のまねをしたりすると批判されている。
日本人は個人の確立が出来ていないのでいつも判断は人任せ。
思想、哲学がないから自分の意見がない。マッカーサー曰く 日本人の思考程度は12歳。などと言われてもイラクなどとは大違いで納得して仕舞い、誰も腹を立てる者はいなかったのです。
回りの他人に合わせて自己を主張しない。
日本人は自分の主体性の無さを嘆いている。果たして正しい態度であるだろうか。?
人は青年の時、何か新しい事を思いつき行動する。
これはこれで、非常に大切なことですが、しかし他人と違う新しい事柄は多くは失敗し挫折してしまいます。
日本人が他人に合わせるのは、大人の生活の知恵なのですよ。たぶん。
思想、哲学を持っていても、他者との調和を重視して為るべく争わない。
日本人は全員が大人なのですよ。(それとも年寄り)
周りの意見を聞かず自分の宗教や哲学を優先してイラクに攻め込んだアメリカのブッシュ大統領には日本人の爪の垢でも飲ましたいですね。
近頃の私はなるべく他人と同じことをするように心がけていますよ。
仰られているような、色々な幾つも相反する解釈が出来る曖昧な場合の話ではないのですよ、
その正反対の、『一つの解釈』しか残されていない場合の話なのです。
『川が逆さまには流れない』ことは誰でもが知っている。
ですからこの場合には答えは一つだけで、『自分の今までの判断が間違っていた』なのです。
冷静に考えれば、それ以外の別の判断が出るはずがない。
ところがですね。
いくら間違っていたとしても、そのために大切な体力と時間を浪費して長い間一生懸命に間違った方向で努力していたのです。
ですから努力の量が大きければ大きいほど簡単には『間違いでした』とは認めたくない。
何かに似ていると思ったら今ニュースになっている賭博問題です。
博打でよく言われる言葉に『勝ち逃げは難しい』があるが、最良の判断とは少し勝っている時に止めるのが最良の判断なのだが、負けている周りが『勝ち逃げを許されない』のと、もう一つは本人の『もっと勝ちたい』欲でなかなか止める潮時が掴めない。
しかし止めるのが難しいのは『勝っているとき』以上に、実はその反対の状態である『大負けしている時』なのです。
止めると今までの損金が確定してしまうのです。旧日本軍と同じで、負けが酷すぎると酷すぎるほど逆に負け戦が余計に止められない。
『川が逆に流れている』とは、賭博で大負けした時、今までの努力や金を無駄にしてしまうので止めたくても余計止められないのと、同じ心理状態ですね。
日本はこの20年以上一生懸命に消費税と緊縮財政で財政再建を行ったのですが、
その結果が今の日本の800兆円の債務残高と世界的に異常極まる0金利とデフレ経済による消費不況です。
債務超過とデフレが長年の財務省高級官僚の指導の結果である事はこれほど確かな事はありません。
何故なら20年間も同じ方向で実験してきた検証の結果は既に出ているのです。
ところが努力した量と時間が大きければ大きいほど『間違いを認めて方向転換』することが難しくなるのです。
今度の管新総理の『財政再建』方針とはこの『長年同じ方向で間違っていた』財務官僚の民主党が取り込まれた結果です。
それでは、認識が甘くなくて「常識」も「本人に都合のよい解釈」も拒否して生きる(生きられる)人とは一体どのような人物なのか? 少なくともそのような人の多くは、融通の利かない偏屈な奇人変人、浮世離れした仙人や厳格な修行僧のような、一般の人間社会では伍し難い人物であると想像されます。
ですから、このような疎外を受け入れるのが嫌で、多くの人が好んで(あるいは無意識的に)、「常識」や「本人に都合のよい解釈」を受け入れているという社会的心理的側面もあるはずです。
世の中では知識や経験、教養があったとしても根本的に判断力に問題がある人が多すぎるのです。
物事に対して、正しく判断出来る人は極少数で、大概はバイアスに影響されて間違いを犯すが、問題は人が間違うことではありません。
間違う事は誰にもあります。
問題なのは目の前に『自分の判断の間違い』を突きつけられても、多くの人が自分の間違いを認めないことなのです。
人は間違いを犯す動物です。
機械は故障し、人は間違い、コンピューターは誤作動する。この事実は誰でもが知っているが、身についた理論として判っている人は少ない。
間違いを認める勇気のある人も極々少ないのです。
自分の主観(思い込み)と目の前の客観的事実の間に齟齬がある場合に即座に主観の側を修正できる人は殆どいません。
大概はその正反対の態度である、今までの『主観』側を優先して仕舞い、『客観』側を修正してしまう。
『川が逆流している』という話をご存知ですか。
これは山で道に迷って彷徨してしまい現在位置を誤認した登山者が川に出たときに言った言葉です。
揚子江やアマゾン河口では満潮時に逆流する事はあっても、絶対に日本のように勾配に強い川は逆流することは無い。
自分の今までの主観的判断と現実問題が違っていた場合に、困った事に多くの人は主観の側を修正するのではなく『逆流している』と『客観的事実』の方を『間違っている』と思うのです。
何故『時代のウェブログ』さんのところに私が毎回毎回訪ねていくかの理由ですが、最初のコメント時に北朝鮮拉致問題の『恵みさんDNA鑑定』でも日本政府の印象操作、偽装工作を指摘した時に、唯一『川が逆流している』との態度をとらなかった保守系ブログだったからなのです。
それ以外では全てが『川が逆流している』とするか、一切の思考を停止するのですよ。
これは本来論理が優先されているはずの護憲左派でも事情はそれ程の大きな違いは無く、多くのブログは『川が逆流する』で、主観優先で『客観的な科学的事実』を優先しているところは極々少ないのが現状です。
人は見たいものだ見て、見たくないものは絶対に見ないのです。
たとい見えたとしても『川が逆流』したのだと不都合な真実は『無かったことにする』のです。
>TBではなくコメント欄に書き込めば、色々な読者の中には最悪『喧嘩を吹っかけているのか』と思う人も出てくるでしょう。
他人のブログのコメント欄で喧嘩する非常識な輩もいますが、当ブログ読者にそういう者はおりませんのでご安心を。たまに空気を読めない一見さんが通りすがりますが、そういうのは無視しますし。
当方が申し上げたいのは、ご自分のブログの一部分だけをコメント欄にペーストしても真意が伝わらないでしょうから、トラバだけで十分ではということです。
そもそもトラックバックとは相手ブログへの通知機能で、今日のようなリンク代わりは後からの流用です。
コメント欄で予告して、「もっと詳しく知りたきゃ、こっちに来い」という意味かもしれませんが、当方はブログ見本市ではないので(笑)。
ある事柄について、様々なブログの読み比べを意図したサイトとしては「Blog-Headline+」などがございますので、そういうサイトをご利用なされば良いように思います。
護憲左派の立場から、立ち居地の違う保守を標榜するブログ主さんなら『どのように考えるか』など別の『見方』に興味があり、是非ともご意見をお聞かせ願いたいと思っているだけで他に何の意味はありません。
ですから例えば今回の記事で内容の中でも『君が代』ブキウギバージョンは当ブログ読書の疑問に思う人さん的な表現を借りれば『こいつを死刑にしろと言いたくなるでしょうね。』と思うような過激な内容なので、TBではなくコメント欄に書き込めば、色々な読者の中には最悪『喧嘩を吹っかけているのか』と思う人も出てくるでしょう。
好き勝手にやっているように見えるかも知れませんが、結構、此れでも気を使って他所のブログにはコメントを送っています。
時代のウェブログさんのように、保守を標榜しているブログで感情論ではなくその正反対の知性のひらめきが感じられるブログは実に珍しく、極少ないのです。
その反対に護憲派でも陳腐な公式論以外何も無い知性も知性も無いところも数多いので困っています。
なにとぞ今後とも、これに懲りずに宜しくお願い致します
それは『無理」ですね。不可能です
基本的に呪術的な意味があるが、『君が代』には、世界平和に利用できるとかの、そんな『力』は全くありません。
そして当方は徹底した無神論なので科学しか信用していないし、祈りやその裏バージョン呪いや呪術は認める訳にはいきませんし、もしも呪術に力が『ある』としてもマイナスのエネルギーしかないのですよ。
ですから仰られている事は『マイナスエネルギー』をプラスに転換する話で、これはやはり物理学的に不可能でしょう。
『最上の帽子は頭にのっていることを忘るるような帽子である。最上の政府は存在を忘るるような政府である。』ように、
『国家』も存在を意識しなければ為らないとすれば良い国家であるとはいえない。
最良の国家とは、存在を忘れるような国家ではないでしょうか。?
在日三世でJリーガーの鄭大世(チョンテセ)選手が、韓国籍のままで北朝鮮代表としてワールドカップに出場して北朝鮮国歌の斉唱時には感極まって泣き出すなどは、感動的ではあるが、矢張り『羨ましい』というよりも『悲劇的』でしょう。
アイルランド系でイギリス代表としてワールドカップにでたルーニー選手なんかも『国家』と自分が所属する民族と自分のアイデンティティとの間に同じ問題を抱えていたのでしょう。
我々一般の普通の日本人のように『国家』も、それを象徴する国旗も国家もそれ程意識せずに生活していると言うのは、やはりこれは良い事なのです。
そういえば少し前に民主党旗を日の丸二つを使って作った事件で大騒ぎしていた自民党など右翼がいたのですが、考えさせる事件の対応でしたね。
どんどん民主主義が後退している証拠でしょう。
昔は『君が代ブギ』まであったのですが、清志郎のロック『君が代』は遥かに保守的で穏健なのです。
『何かに対して怒っている』ことだけは理解できますが、
残念ながら『何に怒っているか』が分からない。
現役時代の中田のパスが気に入らないのだろうか。??
ichiro.jrさん、
『君が代』が『気分が萎える』作用があるのは、何も中田が指摘するまでも無く、誰でもが知っている事実で真新しい事はなにもないのですよ。
誰でもが知っている周知の事実だが、誰でもが世間を憚って口には出さないだけです。
ですから、
>余計な論を煽るような事まで口出すな!って言ってやりたい気分だ。お前は一体何様のつもりかと<
などの怒りの感情が何故自分に芽生えたのかと、もう一度冷静になって、ご自分を省みる事が大事でしょう。
普通ならここは怒る場面ではないのですよ。
誰でもが知っている事実だが、誰も公衆の面前では口に出さない真実とはイソップ童話の裸の王様の話と同じで、賢い大人は誰も口にしない。
口に出すのは頑是無い子供ぐらいなのです。
ですから中田を批判するなら『そんなことなら誰でもが知っている。愚かな子供の態度をするな』と非難するべきでしょう。
>『他国の(特に欧米系の)国歌がイケイケGoGo的な曲調』<
欧米系云々は、此れは誤解です。
日本以外の全ての国歌はイケイケGoGo的な曲調なのであり、唯一『君が代』が例外なのです。
何故『君が代』が大きく違うかと言うと、そもそも国歌としては出来上がっていないのですよ。
もともとの目的が違っていたので、出来上がりが違っていて当たり前なのです。
根本的なところの認識が間違っています。
>『特異なポジションにあるという意味に於いて結構、自尊心をくすぐられて好きです。』<
他人の好き嫌いなどの主観問題は論じたくは無いが、
国際試合など外国との問題であれば当然国際的なルールや見方が優先されるのです。
ガン黒少女が目立つ事は事実ですが、本人が思っているほどには美しくも無ければ知性的でもない(阿呆に目える)のと同じです。
>『忌野清志郎氏の姿勢が共感を覚えますね。』<
この部分だけは同感です。
で、ichiro.jrさんはパンク・ロック『君が代』を人前で歌った事がありますか。?
普通は歌わないでしょう。
そして、誰であれ忘年会とか慰労会など、あるいはコンパとかパーティーなど、または結婚式の披露宴で歌を歌う場面で、ご自分か、あるいは誰か同僚や上司が『君が代』を歌う場面に遭遇したことがありますか。?
普通は無いはずです。
誰か、いたとすれば可也の変人で、普通は誰も人前では『君が代』は歌わないのですよ。
理由は簡単で、正に中田が言った『聞いたもののテンションを下げる君が代の不思議な作用』が理由なのです。
もしも私の言葉が信じられないならご自分で一度これ等の場所で『君が代』を独唱してください。
私の言った言葉が真実である事が極簡単に証明されるでしょう。
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ところで当方は脳神経医でも音楽療法士でも無いので真偽は解りませんが、「君が代」にそんな効果があるとすれば、平和のために全世界へ広めるべきですね。入学式と卒業式だけなんて勿体無い。毎朝歌わせても良いくらいです。社民党や共産党などの方々も、すでに憲法解釈でボロボロに骨抜きにされた九条を守ろうなんて叫ぶよりも、「君が代」を歌おうと主張なさったほうが、よっぽど効果が期待できそうです。
なにはともあれ、今後とも宜しくご協力の程、お願い申し上げます。
- 姓はアイルランド系ながら家系図はなく親戚にもアイルランド出身者がいないため、本人曰く「アイルランド系だと思う」
とあります.
まあ,リバプール出身で家族がカソリックというのだから,まずアイルランド系でしょう.ルーニー選手にはアイルランド代表の資格もあるようです.
とまれ、歌わせるかどうかは別問題でしょうが。色々あれど、一応は国歌ですよってなってて、んで国歌には敬意を払う(という言い方でいいのかな)。というのが、慣習になってるみたいですし。
そういや、どこかのサイトで、アメリカのように移民が多い国だと、国旗や国歌でアメリカ国民だというアイデンティティーを植え付けないと国家として成り立たない。翻って、日本のように、ほとんどが(例外はありますが)単一民族の国で、一々国旗や国歌を強制して、日本国民であるという事を意識させる必要があるのかって感じの意見がありましたね。
しかし、今回の考察は、ネトウヨからしたら、こいつを死刑にしろと言いたくなるでしょうね。
在日三世でJリーガーのの鄭大世(チョンテセ)選手は北朝鮮が44年ぶりのワールドカップ出場で、韓国籍のままで北朝鮮代表としてランキング一位のブラジルと対戦する。
試合開始前の北朝鮮国歌の斉唱時には人目もはばからず号泣したそうですが、これほど鄭大世(チョンテセ)選手にとっては、日本人の我々では考えられない程度に、国歌斉唱が意味があったのですね。
国家とはそもそも何であるか。?
国歌の象徴である国旗国歌の意味とは何かを思わず考えない訳にはいきません。
>『それに『君が代』は「祈り」なんですね』<
>『「祈り」は共感してこそ効果があろう』<
『強制されて反感を抱きつつ唱える「祈り」は「呪い」に他ならない』<
とは流石に愚樵さんは鋭い。
『祈り』が実際に力があると信じられていた平安時代には密教が大流行するのですが、祈りと呪いとは同じものの裏表の関係にあり、当然呪術的な『呪い』も大流行して祟り神としての菅原道真や崇徳天皇が恐れられもしていたのです。
尋常でない非業の死や恨みをのんで死んだ人はそのままでは成仏できないで現世に災いをもたらす。これ等の『祟り』や『呪い』を恐れて、『神』として祭ったのが日本的な宗教の特徴なのですが、『君が代』も『祈り』の一種なのですから扱いを間違うと間違いなく現世に彷徨い出て祟るでしょう。
『君が代』が『祈りの歌』であり、ここが他所の国の行進曲としての『国歌』とは違うのだと言うことが根本的に分かっていない人が多すぎるんでしょう。
自民党政府が1999年に国歌として正式に法制化したのに間違いの元がある。
日の丸の起源は船印なので元々シンボルなのですが、『君が代』の起源は全く違う。
元々日本最古の勅撰和歌集『古今和歌集』の巻七、賀に歌の「読み人知らず」の『わがきみは・・・・』で長寿を寿ぐ『祈りの歌』だった。
此れを軍楽隊のイギリス人フェントンが作曲して出来上がったが、皇室の式典用で、当事は今とは違い日本人が誰彼の区別無く国歌として歌うようなことはしていなかった。
また基本が雅楽なので普通の国歌のように大勢が歌えるような歌ではない。
最初から『君が代』はそんなことは想定していないのですから当たり前です。
それなら何故国歌として不適当な皇室の儀典用の歌の『君が代』が国歌になってしまったかというと、官僚同士の縄張り争いで、国歌を作りたかった文部省官僚が、当事最大の力を持っていた宮内省官僚に敗北したからだとの説が有力です。
暫定国歌だった『君が代』ですが、日本が軍国化していく過程で次第に国歌として国民意識のなかに定着しやがて国民生活において慣習法化していくわけです。
しかし決して法律で決まったものではなく、人々が何となく国歌だろうと思っていた程度の暫定国歌だったのです。
この国家意識の強烈に強制した大日本帝国時代でも暫定国歌だった『君が代』を、民主主義国の日本国の国歌に小渕首相がしたのが騒動の始まりなのです。
>日の丸や君が代に背を向けてこそ社会的に見て正しい態度なのです。 <別に僕は『君が代』が特に好きでもないし『天皇陛下万歳』でもないが「これが正解」って言われると違和感しか抱かない。他国の(特に欧米系の)国歌がイケイケGoGo的な曲調なのに対し、『君が代』は旋律もオーケストレイションも「ありきたり」でなく特異なポジションにあるという意味に於いて結構、自尊心をくすぐられて好きです。(歌詞は結構どうでもいいですが)
忌野清志郎氏の姿勢が共感を覚えますね。
感涙に咽びながら歌うも良し。そっぽを向いて拳を突き上げるも良し。そこは全く個人の自由だが、それでも多くの者が支持するからこそ国歌としての価値がある。
それに『君が代』は「祈り」なんですね。だからモチベーションなど上がりようがないが、「祈り」は共感してこそ効果があろうというもの。強制されて反感を抱きつつ唱える「祈り」は「呪い」に他ならない。『君が代』を強制するバカ共は、自分が愛しているはずの国家に「呪い」をかけるように誘導しているようなもの。国歌斉唱を拒否する左派の方がよほど愛国者です。
>今までのワールドカップでは自国開催(日韓共催)の時を除けば、すべて一大会(予選3試合)で1得点しか取れないのが日本の今までのサッカーの歴史です。
その歴史は岡田監督とともに始まりましたが、今回はそのジンクスを岡田監督みずから打ち破ってくれるでしょう。なぜなら、岡田監督は我が母校の先輩であらせられるから。
論理もへったくれもありません。理由はただそれだけ。天皇陛下バンザイ、と同じです(笑)
忘れてよい事と、忘れてはいけない事がある。
英国のキャメロン首相が今月15日、38年ぶりにイギリス領の北アイルランドで1972年に起きた英軍がカトリック系(アイルランド系)デモ隊に発砲し14人の非武装の市民を殺した『血の日曜日事件』について、
イギリス政府として『不当であり、容赦できない。政府、国の代表者として深く遺憾に思う』と下院で初めて謝罪しています。
今まで英政府としては謝っていなかったのですね。
そして40年近く前の話なのでイギリス人の多くは忘れているが、やられた方のアイルランド系は忘れるはずが無い。
例えイングランド代表(イギリス国籍)であったとしてもルーニー選手がアイルランド系だったら、素直にイギリス国歌を歌う方が異常でしょう。
当然歌わない。
アメリカでもヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリが徴兵されたが黒人の自分には『ベトナム人を殺す理由が無い』として徴兵拒否してチャンピオンベルトを剥奪された60年代当事には、
オリンピックの短距離では一位から3位まで全てアメリカの黒人選手であったのですがメダル授与の場面で星条旗と国歌斉唱に全員が顔を背け拳を突き上げてアメリカを象徴する国旗や国歌に抗議していたのです。
今のように黒人が『星条旗よ永遠なら』を無邪気に歌う方が矢張り問題ではないでしょうか。
今の日本に置き換えたら、派遣社員や落ちこぼれニートで社会保険にも満足に入れない若者はある意味で60年代のアメリカの黒人青年と同じで、日の丸や君が代に背を向けてこそ社会的に見て正しい態度なのです。
ワールドカップで国歌が流れるとき,胸を張って一生懸命歌っている選手もいれば,黙っている選手もいる.国歌に対する気持ちは人それぞれだから,歌うのも歌わないのも自由である.ナショナリズムのせめぎ合いのような場でありますが,それでもその程度の常識は許容される.
イングランド代表のルーニー選手が国歌を歌ってなかったのは,彼の出自がアイルランド系だから,というのは考えすぎ?