身の回りの経済状況は政治の進展の影響を受けて良くもなり悪くもなる。
世の経済は草刈場に突入する雲行きになってきた。
全体的な緊縮はどこかが受け入れない限り決着は付かず、しびれを切らした勢力が生き残りや勢力拡大を目論んで暗躍を続けることになる。
政治の役割は富の配分や機能分担の調整であり、政治が金や物を産み出すということはないのだが、多くの日本人は政治に全てを求めようとしている気がする。大昔のお殿様の延長で政治家を見ている気がする。
政治を託す政治家はその時々の便宜でその能力を使いこなせばいいだけのものを、生涯を託す伴侶以上の選別眼で無理難題を期待してしまっている。
彼らを無理な期待で縛ってしまうことは、先々自らの自由を犠牲にしなければならなくなるのに、どうもそのことが解っていないようだ。
小沢と菅の政権争いは向こう10年先の普通の日本人の生活を左右する重要な分岐点なのだが、そういった認識でこの政争を見ている人々は少ないように思う。
菅政権を支えるメンタリティーの源泉は、組織や集団という人頭を基点にするところにある。その意味では近代民主主義の線上にあるのだが、相対価値で形成される経済世界と価値観の共有が難しいという欠陥を秘めている。
公務員という職制集団や組合員という組織身分、会社員という集団身分、いずれかの集団に属する者が生き残っていく政治が展開されていき、農業や自営業者という組織に属さない者が置き去りにされていく恐れが強い。
支援母体をもたない個人事業者などは為にする議論の場にも参画できなくなるからだ。数による政治の弊害が色濃くなると思う。
経営者も組織を代表するが、類別すれば自営業者と同じ位置に立っている。
菅対小沢という政権争いの対立軸には政策の対立という次元だけではない集団組織対個人という政治的メンタリティ以外の対立が隠れているような気がしてならない。
開かれた世界経済や国際市場を考えれば、いかなる組織や集団も個に過ぎないから、絶対的な集団主義が国際調和を保てなくなるのは、ソヴィエトや中国の例を見なくとも明らかなのだが、今の日本人には未だ見えてはいないのだろう。
総論的には後退が始まるだろうから、今迄の自分の経験や体験が有用な時代が始まるということでは生きていくのに都合はいいのだが、自由が規制されていく社会に魅力は感じない。
教条や議論では今の日本が抱える諸問題を解決することはできない。
議論をすればするほど問題の核心が各自の利権に置き換えられて固定化してしまうから、本質的な解決から遠ざかることしかできなくなる。
多少の混乱はあっても自由化を推進して沈静を待つしか方法はないのだが、自由を恐れる人々は統制された庇護の下に生きようとするようだ。
また日本人は失ってから有り難味を知るということになるのかも知れない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます