ことしの自分のテーマの一つが、文章への考えを深めること。一口に「文章」と言っても、考えを巡らせられる領域は広い。例えば、文章の基礎となる言葉=語彙、言葉を使う上でのルール=文法、センテンスのつながりや文章の構成、作品の鑑賞・書評、作家論…などなど。読み手の立場なのか、書き手の立場なのかでも、考える視点は変わってくる。
アラフォー隊員は、身勝手に記者職を休眠しながらも「あくまでライターをなりわいとして生きていく」としつこく言い張っている身。当然、書き手として「より良い文章」を書くために、文章の世界を探索するのだ。
そんなことを思っていた昨年末、インターネット上のとあるインタビュー記事に目がとまった。若手ノンフィクションライターの石戸諭氏が、作家の沢木耕太郎氏に「70歳を過ぎても『文章の探究』を続けられる理由」をテーマに尋ねたものだった。(講談社「現代ビジネス」)
沢木氏は、隊員が学生時代に読んだルポで衝撃を受け、「書く仕事」を本気で志すきっかけにもなったライター。近年は小説にシフトしているが、過去のノンフィクション作品のいくつかは、読み返すたびにコーフンする。これについては、以前に書いた(ブログ「読書再び」)
インタビュー記事は、「フィクションとノンフィクションの違い」にもとづく方法論から、「文章」そのものの話へと展開していた。
「文章を強固に精密にする努力をして、圧倒的に時間を費やす。例えていうなら、茶碗を使う粘土を強靱にするということ。そのための時間を惜しんだことはない」(記事引用)
粗製濫造のわが日々を思う…。
「ずっと、正確でスクエアな文章が書きたいと思ってきた」(記事引用)
スクエアとは、かちっとした文章と言うこと。たしかに、沢木氏の文章は、堅く、きれいだ。
新聞記者として働いてきた隊員は、念仏のように「センテンスは短く」とたたき込まれてきた。沢木氏も「文章の原則はセンテンスを短くすることにある」と語っている。
「原則は短く。それでも長くなってしまうセンテンスにこそ、情感がこもる。長いなと思われて、読まれないとそこで終わり。長いセンテンスを短いセンテンスと同じように読みやすくすること、すっと読めるようにすることが大事だと思っている」(記事引用)
耳が痛い。
「短いセンテンスはボクシングで言えばジャブ。これが基本になってリズムを作る。でも、大回りになっても効果的な右フックはあり得るよね。あらゆる文章を『すべて短くせよ』では足りないものがある」(記事引用)
なるほど。長い原稿では「文章のリズム」を意識するよう努めて記事を書いてきたが、あくまで感覚的なもの。「じゃ、どんな文章が『リズムがいい』んだ」と自問しても、よく分かっていない。
こんな話のほかにも、文章を考える上でおもしろい要素がいくつか盛り込まれていた。
余談だが、最近メディアでよく見かける、この石戸氏。隊員は昔、一緒に仕事をしたことがあった。石戸氏が毎日新聞の駆け出し記者だった当時、同じ駆け出し記者として同じ記者クラブに所属していただけだが。スマートないでたち、とんがった口ぶりで、「さっきのクソ会見、記事にしませんよね?」なんてニヤリと鋭く聞いてくる。おもろい記者がいるもんだなと思っていた。
ほかにも、石戸氏の興味深い記事をいくつか読んだので、いずれ取り上げてみたい。