福富ストラット

「記者ときどき農夫」。広島の山里で子ども向け体験農園づくりにいそしむ、アラフォー新聞記者のブログ。

家族を想うとき

2020-01-28 09:03:47 | 日記
© Sixteen SWMY Limited, Why Not Productions, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2019

 20代の数年間、契約仕事やアルバイトをかけ持ちして、一人暮らしの生計を立てていた。零細出版社での書籍の編集、新進アートからアダルト雑誌まで扱う写真ラボでの現像作業、開館前の図書館の清掃、サラリーマンでにぎわうラーメン店での調理…。東京と横浜を電車と原付バイクでこまねずみのように動き回り、早朝から夜遅くまで、くたくたになるまで働いた。長い旅に出るため、とにかく金をためたかったのだ。
 いま思えば、低賃金で労働時間の管理もままならないブラックな職場も多かった。しかし、当時は若く、体力だけが自慢。なにより、いまに輪をかけて思慮が浅かった。守るべき家族も、支えるべき老いた親族もいない。自分のことだけ考えて働き、自分のためだけに時間を使って何の不都合もなく、日々の充実感を得られた。
 懐かしくもあるこの牧歌の時代は、人生における「働くこと」について、本質的な部分で向き合っていなかったともいえるのだが。

 イギリスの社会派映画監督として知られるケン・ローチ監督の新作「家族を想うとき」は、豊かに成熟したはずの現代の「働き方」、つまり「生き方」に疑問を投げかけている。
 職を転々としてきたリッキー(クリス・ヒッチェン)はマイホーム購入を夢見て、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立する。訪問介護士として働く妻のアビー(デビー・ハニーウッド)は、夫リッキーの資金作りのために車を手放され、働きにくさから家に居られない時間が増えた。
 効率と生産性を最上位の物差しにして回り続ける職場。2人は真摯に仕事と向き合おうとすればするほどいらだち、心身をすり減らす。夫婦のいさかいが増えるにつれて、高校生の息子の行動も荒れる。仕事も家庭も、小さなずれから事態は深刻さを増す。どうしてこうなってしまったのか。以前のような家族に戻りたい。そう願う幼い娘は、けなげな一手を講じるが―。

 労働に支配され、押しつぶされ、他者に非寛容になる。こうした悪循環は、会社員であれ経営者であれパートであれ、国を問わず起こり得る。「いったい何と闘えば、家族を幸せにできるの?」。本作品の宣伝文句に痛みを覚える人は少なくないはずだ。
 資本や企業、社会の制度を回し続けるために、肝心の「人の暮らし」がすさんでいく。どこかおかしな働き方は、個々の労働者の資質に因る面が少なからずあるだろう。しかし、1時間40分というコンパクトな全編を通じて、「根本的には社会システムの問題」との思いを強くした。
 社会は簡単には変わらない。変えられるのは個の方。閉塞感が広がる労働現場の救いは、銀幕の中の「個」に見いだせる。
 「私はあなたから学んでいるんだから」。失禁をして謝る認知症の老女に対し、アビーがごく自然に投げかけた言葉が胸に迫った。「義務」や「愛情」などという大仰なことは意識しないまま、職業人としてごく普通に現れる人間性。それに触れた老女の不安げな表情が、ふっと和らぐ。働くことの美しさが詰まった一コマだった。
 人の上に立つわけでも、何かを成し遂げるわけでもない。自分の仕事、日常を真摯に生き、家族や仲間を想う。そんな「無名の働く人」たちにバカをみさせる社会での家族の「闘い」は、唐突さも感じさせるラストまで続いた。
                  ◇
 家族の通院の付き添いで広島へ出た際、かなり久しぶりに映画館に足を運んだ。友人が勧めていた作品を観てみようと思ったのだ。ずしりと考えさせられ、感想をつづった。

田植えへ一歩

2020-01-27 06:31:24 | 日記
 お世話になっている地元兼業農家さんグループのミーティングに出席。相談の結果、この春は近くの田んぼの一角で、米作りをさせてもらえることになった。アラフォー隊員として進めている、こどものための農園づくりの一環だ。
 昨秋、大雨で倒れた稲をボランティアの方々と刈ったのをきっかけに、「次の春はどこかで、田植えから指導してほしい」とお願いしていた。グループの親分らに鼻で笑われながらも「まぁ、物は試し」と、そばにある小ぶりな田をあてがわれた。ミーティング後は「オトコのぶちこみ鍋」を囲んで乾杯!

 田植え日は、5月16日(土)か17日(日)になりそう。新年度から本格化させる農園イベントのひとつとして企画し、いい交流につなげたい。昨秋に来てくれた方々を始め、地域内外の方にあらためて声を掛けさせてもらおう。
 それまでの期間も、手習い中の野菜畑や地域のフィールドを借りて、農園づくりの活動は少しずつ進める。昨秋の被害田で取れたお米もグループからお裾分けしてもらっているので、稲刈りや脱穀に来てもらってまだ渡せていない方を含め、折々にみんなで味わえる機会をつくりたい。
 
 と、勝手に妄想してるけど、捕らぬお米の皮算用。まずは溝掃除や草刈り、あぜの修繕、代かきなどなど…田植えまでにもいろいろあることを知ったので、ぬかりなくせねばっ。

スクエアな文章

2020-01-22 23:15:30 | 日記
 ことしの自分のテーマの一つが、文章への考えを深めること。一口に「文章」と言っても、考えを巡らせられる領域は広い。例えば、文章の基礎となる言葉=語彙、言葉を使う上でのルール=文法、センテンスのつながりや文章の構成、作品の鑑賞・書評、作家論…などなど。読み手の立場なのか、書き手の立場なのかでも、考える視点は変わってくる。
 アラフォー隊員は、身勝手に記者職を休眠しながらも「あくまでライターをなりわいとして生きていく」としつこく言い張っている身。当然、書き手として「より良い文章」を書くために、文章の世界を探索するのだ。

 そんなことを思っていた昨年末、インターネット上のとあるインタビュー記事に目がとまった。若手ノンフィクションライターの石戸諭氏が、作家の沢木耕太郎氏に「70歳を過ぎても『文章の探究』を続けられる理由」をテーマに尋ねたものだった。(講談社「現代ビジネス」
 沢木氏は、隊員が学生時代に読んだルポで衝撃を受け、「書く仕事」を本気で志すきっかけにもなったライター。近年は小説にシフトしているが、過去のノンフィクション作品のいくつかは、読み返すたびにコーフンする。これについては、以前に書いた(ブログ「読書再び」

 インタビュー記事は、「フィクションとノンフィクションの違い」にもとづく方法論から、「文章」そのものの話へと展開していた。
 「文章を強固に精密にする努力をして、圧倒的に時間を費やす。例えていうなら、茶碗を使う粘土を強靱にするということ。そのための時間を惜しんだことはない」(記事引用)
 粗製濫造のわが日々を思う…。

 「ずっと、正確でスクエアな文章が書きたいと思ってきた」(記事引用)
 スクエアとは、かちっとした文章と言うこと。たしかに、沢木氏の文章は、堅く、きれいだ。

 新聞記者として働いてきた隊員は、念仏のように「センテンスは短く」とたたき込まれてきた。沢木氏も「文章の原則はセンテンスを短くすることにある」と語っている。
 「原則は短く。それでも長くなってしまうセンテンスにこそ、情感がこもる。長いなと思われて、読まれないとそこで終わり。長いセンテンスを短いセンテンスと同じように読みやすくすること、すっと読めるようにすることが大事だと思っている」(記事引用)
 耳が痛い。
 「短いセンテンスはボクシングで言えばジャブ。これが基本になってリズムを作る。でも、大回りになっても効果的な右フックはあり得るよね。あらゆる文章を『すべて短くせよ』では足りないものがある」(記事引用)
 なるほど。長い原稿では「文章のリズム」を意識するよう努めて記事を書いてきたが、あくまで感覚的なもの。「じゃ、どんな文章が『リズムがいい』んだ」と自問しても、よく分かっていない。
 こんな話のほかにも、文章を考える上でおもしろい要素がいくつか盛り込まれていた。

 余談だが、最近メディアでよく見かける、この石戸氏。隊員は昔、一緒に仕事をしたことがあった。石戸氏が毎日新聞の駆け出し記者だった当時、同じ駆け出し記者として同じ記者クラブに所属していただけだが。スマートないでたち、とんがった口ぶりで、「さっきのクソ会見、記事にしませんよね?」なんてニヤリと鋭く聞いてくる。おもろい記者がいるもんだなと思っていた。
 ほかにも、石戸氏の興味深い記事をいくつか読んだので、いずれ取り上げてみたい。

大人の落ち葉拾い

2020-01-21 14:06:31 | 日記
 「落ち葉を拾いに行きませんか」。昨年末から、近所のおじさんに誘われていた。堆肥づくりに使うのだという。詳しくはよく分からなかったが、「おもしろそうなんで行きます」と即答。日程と天気の条件がそろった先日、二人で軽トラを連ねて近所の某山中へ出動した。
 普段はほとんど人の入らない道の両端に、赤や黄色の葉がたくさん落ちている。木の種類は2人ともよく知らないが、「広葉樹だからいいんでしょう。やっちゃいましょうか」となだれこむ。熊手ではいて落ち葉の山をこしらえ、巨大な籾がら袋やビニール袋にぶち込む。かさばっかりはるので、袋がミシュラン君ほど大きく膨らんでも、ひとりでひょいと抱えられる。が、日陰で湿った落ち葉はけっこう重い。
 山道を下りながら、はいて、ぶち込んで、載せての繰り返し。すぐに2人とも汗だくになる。
 「帰り、冷たいもの飲んで帰りましょう」とおじさん。「いいですねえ。やる気出ました」
 あっという間に1時間半がたち、軽トラ2台の荷台は葉っぱ袋で満杯。落ち葉だらけだった道の一部は、すっかりきれいになった。
 「いつの間にか、だいぶやりましたね」
 「シルバー人材センターに委託したら、1日仕事かもしれませんね」
 僕らも山も、WIN-WINの関係。沢のせせらぎの音を聴きながら一休みし、盗みを終えた盗賊のように、最後の袋を積んで車で逃げ帰るように現場をたった。
 山のふもとのジェラート屋で、また一服。店員から受け取ったおつりは、いつのまにか葉っぱに変わっていた…。なんて。
 おじさん宅のえんがわでラーメンもいただき、退散。次は堆肥づくりにとりかかろう。

自分発

2020-01-20 10:20:52 | 日記
 社会のさまざまな課題に学生が自らの企画で関わっていく活動の報告会に参加した。
 障がいのある人のアート作品をツールに、障がい者への理解を深める▽料理を通じて農家と消費者のつながりを生む▽工学部で学ぶ知見を生かし、新時代の農業に貢献するすべを探る―。などなど、東広島市内の大学生たち計10組が、この半年間の取り組みを報告した。
 活動のひとつひとつに真新しさがあるわけではなかったが、どのプレゼンも力があった。ツッコミどころは満載なのに、共感できる話が多かったのだ。
 中でも、高齢者の生きがいづくりをテーマに取り組む大学1年生の女性の話には引き込まれた。この若さで福祉という地味な分野に目を向け、高齢者が楽しめる講座を企画。活動を機に、資格の勉強も始めたという。「プロジェクトが終わっても、活動を続けたい」。ありふれた言葉にも、明らかに本音の力がある。
 プレゼン終了後の個別ブースでの交流で、いくつかのグループの学生と話をした。「なんで、この活動をしようと思ったの?」「おばあちゃんが認知症になって…」「障がい者アートの作品展でびっくりして…」。学生たちはにかみながら、あるいは目を輝かせながらそれぞれの思いを語ってくれた。

 その後、アドバイザーたちによる講評を聞き、「力」の理由がすとんと落ちた気がした。学生たちに課したキーワードは「自分発」だというのだ。「世の中にこんな課題があるみたいだから…」ではなく、自分の内側からわき上がった活動をしよう、と。それは当然、自身の人となり、経験、家族環境などがからんでくる。
 自分発。「簡単なことのように見えて、案外難しいんですよ。年を重ね、経験を重ねればいっそう。でも、そこが一番の肝だと思います」。終了後、アラフォー隊員と同い年のアドバイザーに会の感想を話すと、こう語ってくれた。「『ソーシャルな活動』が全盛な時代だけど、そっから入っても続かないし、本人がおもしろがれないですよね」。激しく同意した。
 アラフォー隊員自身にとっても、協力隊の活動のみならず、取材、執筆という仕事の上で見失いたくない点だ。個人的な動機付けが「ソーシャル」につながれば互いに一番いいかたち。要は、頭でっかちにならんようにってこと。そんな足下をあらためて考えさせてもらった。会で知り合えた学生さんとも、何か一緒にできればいいな。