© Sixteen SWMY Limited, Why Not Productions, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2019
20代の数年間、契約仕事やアルバイトをかけ持ちして、一人暮らしの生計を立てていた。零細出版社での書籍の編集、新進アートからアダルト雑誌まで扱う写真ラボでの現像作業、開館前の図書館の清掃、サラリーマンでにぎわうラーメン店での調理…。東京と横浜を電車と原付バイクでこまねずみのように動き回り、早朝から夜遅くまで、くたくたになるまで働いた。長い旅に出るため、とにかく金をためたかったのだ。
いま思えば、低賃金で労働時間の管理もままならないブラックな職場も多かった。しかし、当時は若く、体力だけが自慢。なにより、いまに輪をかけて思慮が浅かった。守るべき家族も、支えるべき老いた親族もいない。自分のことだけ考えて働き、自分のためだけに時間を使って何の不都合もなく、日々の充実感を得られた。
懐かしくもあるこの牧歌の時代は、人生における「働くこと」について、本質的な部分で向き合っていなかったともいえるのだが。
イギリスの社会派映画監督として知られるケン・ローチ監督の新作「家族を想うとき」は、豊かに成熟したはずの現代の「働き方」、つまり「生き方」に疑問を投げかけている。
職を転々としてきたリッキー(クリス・ヒッチェン)はマイホーム購入を夢見て、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立する。訪問介護士として働く妻のアビー(デビー・ハニーウッド)は、夫リッキーの資金作りのために車を手放され、働きにくさから家に居られない時間が増えた。
効率と生産性を最上位の物差しにして回り続ける職場。2人は真摯に仕事と向き合おうとすればするほどいらだち、心身をすり減らす。夫婦のいさかいが増えるにつれて、高校生の息子の行動も荒れる。仕事も家庭も、小さなずれから事態は深刻さを増す。どうしてこうなってしまったのか。以前のような家族に戻りたい。そう願う幼い娘は、けなげな一手を講じるが―。
労働に支配され、押しつぶされ、他者に非寛容になる。こうした悪循環は、会社員であれ経営者であれパートであれ、国を問わず起こり得る。「いったい何と闘えば、家族を幸せにできるの?」。本作品の宣伝文句に痛みを覚える人は少なくないはずだ。
資本や企業、社会の制度を回し続けるために、肝心の「人の暮らし」がすさんでいく。どこかおかしな働き方は、個々の労働者の資質に因る面が少なからずあるだろう。しかし、1時間40分というコンパクトな全編を通じて、「根本的には社会システムの問題」との思いを強くした。
社会は簡単には変わらない。変えられるのは個の方。閉塞感が広がる労働現場の救いは、銀幕の中の「個」に見いだせる。
「私はあなたから学んでいるんだから」。失禁をして謝る認知症の老女に対し、アビーがごく自然に投げかけた言葉が胸に迫った。「義務」や「愛情」などという大仰なことは意識しないまま、職業人としてごく普通に現れる人間性。それに触れた老女の不安げな表情が、ふっと和らぐ。働くことの美しさが詰まった一コマだった。
人の上に立つわけでも、何かを成し遂げるわけでもない。自分の仕事、日常を真摯に生き、家族や仲間を想う。そんな「無名の働く人」たちにバカをみさせる社会での家族の「闘い」は、唐突さも感じさせるラストまで続いた。
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家族の通院の付き添いで広島へ出た際、かなり久しぶりに映画館に足を運んだ。友人が勧めていた作品を観てみようと思ったのだ。ずしりと考えさせられ、感想をつづった。