プレアデス星団。
ポリネシア人にとって、星や風は、航海においてかなり重要な要素だった。
星や風を神聖視して生まれた行事にマタリキというものがあるが、マタリキとは、真冬のニュージーランドの早朝の空に現れる星団のことをいう。
マタリキは、英語ではプレアデス、日本語ではすばる、ハワイ語ではマカリイと呼ばれる。
プレアデスが見え始めるころが年の始まりと位置付けられたり、航海をスタートさせる合図ともなった。
「マタリキが南中に登るとき、赤道に風穴が吹く」という言い伝えがイースター島に残っている。
赤道付近には特殊な海流と風が吹いている。
赤道より北には、北赤道海流という東から西に向かって流れる海流がある。
赤道より南には、西から東に流れる海流がある。
それに挟まれるように、赤道無風帯というほとんど風の吹かない海域が存在していて、航海の難所とされていた。
マタリキが南中に登った時に、そこを通過するチャンスが訪れるとされていた。
豊富な経験から公開技術、知識体系ができあがり、古代ポリネシア人たちは、アウトリガー帆船という原始的な船で、ハワイからイースター島までの海域を縦横無尽に行きかうことができた。
古代ポリネシア人は、4500年前、東南アジアからやってきたとされる。
古代ポリネシア人の一部の人たちは、ラピタ土器を作っていた。
実は、東南アジアには、7000年前まで幻の大陸があった。
というのは、20000年くらい前は最終氷期で、海面が低くなりインドネシアあたりは一つの大陸のようになっていた。
現在のインドネシアにあるソロ川周辺で見つかった化石が、港川人と呼ばれる人たちのものであったが、港川人はもともと沖縄に住んでいた。
沖縄とスンダランドとは氷河期においても陸続きではなかった。
なので、湊川人たちには、沖縄とスンダランドを海で行き来できる方法があったということになる。
最終氷期(7万年から10000年くらい前とされる)のあと、温暖化が進むにつれ大陸が沈んでいき、スンダランドに住む人々は、北上するか南下するか選択を迫られた。
南下した人々は、ポリネシア地域へ移動し、ポリネシア人へとなっていった。
そして、ポリネシア人は、すでに持っていた高度な航海技術と、アウトリガー帆船を開発したことによって、世界の海へとはばたく海洋民族・ラピュタ人へとなっていった。
ちなみに、スンダランドがムー大陸のことだったとする説もあり、そうだとしたらラピュタ人がムー大陸の人々だった、ということになる。
幻の大陸が海底に没したならムー大陸、空へ上昇したなら天空の城ラピュタ??
超古代にこの海洋民族ラピュタ人が世界中を航海するうえで、なぜ巨石文化が必要だったのか?
それは水の確保のため、と武内先生は考える。
遠洋航海をするときにとても重要になるのが飲み水の確保。
当時、飲み水を手に入れる方法としては、雨水を溜めるくらいしかなかった。
そのため、長期間腐らない水と、それを入れておく器が重要となる。
その入れ物が、ラピタ土器。
土器の文化が発達した背景には、水の保管がある。
では、腐らない水とは何か?
水道水に塩素を入れて滅菌することはもちろん当時していない。
腐らない水とは、山から湧き出る水。
水に不純物が入っていない湧き水の確保は、遠洋航海を続ける上で必須条件であった。
どんな場所に湧き水がでているのかを見つけ、把握しておく必要があった。
湧き水がとれる森、山は重要であり、そのような場所を目指して移動を繰り返していた。
森や水が多く湧き水が豊富な地域と言えば日本。
日本が必然的に拠点の一つとなっていった。
北赤道海流から黒潮に乗って日本にたどり着いたラピュタ人たちは、水場を求めて上陸し、水場を見つけたらその場所に磐座(いわくら)を立ててマーキングした。
日本の磐座は、世界の巨石文化と比べても古いものが多い。
天草にある世界最大級のドルメンは6000年前のもの。
岐阜県の岩屋岩陰遺跡にある磐座は10000年前の縄文早期の遺物。
しかし、全ての巨石が水場にあるというわけでもない。
それらは夏至を崇めるためのランドマークであり、太陽信仰を表している。
氷河期が終わるころ、海面上昇にともなって太陽は大きく見えてくるという。
また、海が広くなったことで遠洋航海が可能となることが、太陽への感謝、崇拝へとつながったと考えられている。
実際、巨石の多くは夏至のライン上に並んでいたり、夏至の日の出の方角に向かって建てられていることが多い。
そして、ラピュタ人は日本だけでなく、世界中に移動し各地に巨石文化を残していく。
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