日本各地の巨石には、シュメール古拙文字が刻まれたペトログリフ(不思議な文字が刻まれた石碑のこと)がたくさん発見されている。
日本の各地になぜシュメール文字が散らばっているのか。
日本とシュメールにはやはり古くて深い関りがあるようだ。
日本とシュメールの関係を深堀していく。
そのためには、まず、シュメール人たちより前に住んでいたウバイド人たちについて説明をしなければならない。
シュメール人は紀元前4500年ごろ突然メソポタミア地域にやってくるわけだが、シュメール人がくる以前には、ウバイド人たちがその地域で農耕を営んでいた。
紀元前6500年ころは「ウバイド期」と言われ、最初期のシュメール文明とされ、紀元前4000年頃の「ウルク期」へと引き継がれていった。
なので、シュメール人たちが突然現れたとは言われているが、それ以前にウバイド人たちがシュメール文明の礎を築いていた。
そして、シュメール人たちが優れた灌漑技術や高度な知識で、ウバイド人たちが作った土台・文化をさらに拡張していった。
ウバイド人たちは元々シベリア地方で農耕をしていた民族であったが、地球の寒冷化に伴い、紀元前6500年ころにメソポタミア地域に南下し、先住していた人たちと混血していった。
ウバイド人たちは南下する際に、ノアの箱舟が辿り着いたアララト山を越えて、アナトリア高原にアナトリア文明(紀元前7000年ころ)を築いていた。
このころには既に、チグリス・ユーフラテス川を利用して黒曜石の交易を行なっていた。
日本においても、縄文時代に広い範囲で黒曜石の交易が行われていた。
特に諏訪で採れる黒曜石が有名だった。
ウバイド人たちの移り住んだメソポタミア地域では、紀元前5000年~前4000年にかけて、都市化が進んでいった。
大きな規模の集落、部屋が複数ある長方形の泥レンガ造りの家々を特徴とした。
ウバイド期の後半では、神殿など公的な施設が作られるようになっていく。
10ヘクタール以上の面積の大きな集落を1ヘクタール以下の小さな集落が多数取り囲むという集権的な集落の構造が現れ始める。
シュメール文明の中央集権体制の始まりともいえる時代がウバイド期に現れる。
ウバイド期の次は、紀元前3500年頃から始まるウルク期であり、都市ウルクを中心に本格的な都市国家が形成され、数万人の人口を抱える都市が現れ始める。
このウルク期の文化がメソポタミア全域へと広がっていく。
ウルク期後期には、粘土板に記号を刻む「記録システム」が使われはじめ、「ウルク古拙文字」が誕生する。
このシュメール文明の先駆けとなったウバイド期・ウルク期の前半は、文字がなかったために、どのような文化を持ちどのような生活を行っていたのか詳細はよく分かっていないが、ウルク期後半の古拙文字によって徐々に明らかにされてきている。
ウバイド期・ウルク期の遺跡から分かる情報と、ウルク古拙文字の情報を比較してみると、そこには重大な文化的断絶は確認されていない。
そのため、ウバイド文化とシュメール文化には連続性があり、ウバイド人たちはシュメール人に支配されたのではなく、緩やかに交わっていったと考えられている。
ウバイド人とシュメール人を同一とみなす説、ウバイド人とシュメール人が徐々に混血していった説などあるが、正確なことは分かっていない。
しかし、ウルク期にシュメール人が突如現れ、ウバイド文化によって整えられた都市と掛け算するかのように、一気に高度な文明を発展させていったことは事実である。
次に、ウバイド人と日本人との関係について解説していく。
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