郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名の由来「宍禾(粟)郡に7つの里」

2019-10-19 22:18:07 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
      しさわのこおり                                                         しそうぐん
地名の由来「宍禾(粟)郡に7つの里」    兵庫県宍粟郡(現宍粟市)
                  
                                                             閲覧数3,347件(2009.11.17~2019.10.19)


 播磨国風土記によれば、宍禾郡は孝徳天皇の時(7世紀中頃)、南隣の揖保郡(いいぼのこおり)から分離、独立したという。

宍禾郡が揖保郡から独立したときは、次の7つの里がありました。 

1.比地里(ひじのさと)
2.高家里(たかやのさと) または(たいえのさと)
3.柏野里(かしわのさと)
4.安師里(あなしのさと)
5.石作里(いしづくりのさと)
6.雲箇里(うるかのさと)
7.御方里(みかたのさと)




〇「和名抄」※には、三方郷、高家郷、比地郷、柏野郷、安志郷、石保郷、伊和郷、土万郷の八郷が見える。三方郷は御方、三条、御形とも記す。

この郡名・里名を裏付けるものとして、平城京跡、奈良明日香村飛鳥池遺跡、藤原京跡などから木簡※が発見されている。この木簡には、宍禾郡と宍粟郡の二つの表記が見られる。風土記にある「宍禾」はいつしか「宍粟」に統一され、読みは「しさわ」から「しそう」と変化したようである。



言葉の注解
孝徳天皇:中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)による大化の改新(645年)で天皇になった。
木簡:墨で書かれた木の札で、役所が出す文書や都に送られる税の品物につける荷札に用いられた。平城京跡の木簡には、[播磨国宍粟郡三方里大豆五斗]と書かれている。
※木簡のデータベース  奈良文化財研究所
https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/
和名抄:正式には、和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)という。平安時代中期 (931年 - 938年)に作られた辞書である。今日の国語辞典の他、漢和辞典や百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。

参考文献:宍粟のあゆみ日本地名大辞典一宮の歴史』

最上山のお寺(経王院)の釣鐘堂

2019-10-19 16:31:26 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
最上山(さいじょうさん)のお寺
                                                閲覧数2,416件(2009.11.17~2019.10.19)

「最上山のお寺(経王院)の釣鐘堂」


最も新しき山崎名所繒葉書(特製)の中から


山崎小唄(昭和7年作)の歌詞の

 「~あれは山崎最上山(さいじょうさん)
   鐘がなります 日に三度 ありゃ 日に三度」

の鐘の音は、この釣鐘堂から発した。

今では聞かれない、山崎の音の原風景
懐かしき鐘の音 いつごろまで聞いていたのだろう?
(釣鐘の音は、大晦日の除夜の鐘のみとなった) 

現在の写真


播磨 篠ノ丸城跡 ~官兵衛 飛躍の地 宍粟市~

2019-10-19 15:45:31 | 城跡巡り
閲覧数】5,157件(2013.11.8~2019.10.19)



官兵衛 飛躍の地 宍粟市」 

篠ノ丸城跡の整備進む

                                             
篠ノ丸城跡遠景 南東の須賀沢・川戸の峠から




 先日篠ノ丸城跡に登った。城の山頂部の本郭に城址の説明板が設置され、本郭の南の東屋の周辺を覆っていた木々が伐採され見晴らしがよみがえった。
 さらに西の東屋の北側がきれいに刈り取られ、宇野氏のもう一つの城長水城跡のある長水山がよく見えるようになった。 (2013.11現在)



  ▲篠ノ丸城址立体地図(縄張図)  説明板より


※今回の市の調査で実測立体地図が示された。従来潅木でわかりにくかった畝状竪堀(うねじょうたてぼり)や堀切、北に続く郭群がみごとに映し出された。

 

▲南の展望が開けた。南東には秀吉軍の本陣となった聖山城跡がよく見える。同時にここから日の出が見られるようになったこと等、地域住民にとっては喜ばしい。

 


▲登山道途中や山頂に「山の学校」による特製の椅子が用意された。

 


▲主郭に城址の説明版が設置された。

 

▲西の東屋北 宇野氏の長水城のある長水山が見える。


きれいに潅木が除去され、伊沢谷と長水城跡のある長水山がよく見えるようになった。



▲写真ではわかりづらいがよく見ると畝状の縦筋の竪堀跡が見える




◆城郭一覧アドレス

地名の由来「宍粟」

2019-10-19 11:36:16 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
      しさわのこおり
地名の由来「宍禾(粟)郡」   兵庫県宍粟郡(現宍粟市)
                                               閲覧数6,117件(2009.11.17~2019.10.19)


播磨国風土記には、次のような記述があります。

イワノオオカミ(伊和大神)とアメノヒボコ(漢人:アヤヒト)との揖保川上流の土地争奪の話が出てきます。
神話はこうです。
両者の長い戦いが終わり、伊和大神は、山から下りて、国巡りに出られました、すると、大きな鹿が舌を出して飛んできました。伊和の大神は、「矢は彼(か)の舌にある」と言い、見るとその舌に矢が刺さっていました。そこで、「鹿(しし)に会う」をもって宍禾(しさわ)と名づけた。
 この辺りを鹿(しし)の多いところ、宍禾の郡(しさわのこおり)と名をつけ、その村を矢田村と名づけた。しかし、矢田村は、どこにあるかわかっていない。

●「宍」は肉の意味、「粟」は穀物の意味で、狩猟と農耕の土地を意味している地名


言葉の注解

※播磨風土記の原文 : 下記写真  写本は国宝に指定されており、現在は天理大学附属天理図書館が所蔵している。
※現存する風土記 : 播磨(はりま)、常陸(ひたち)、出雲(いずも)、肥前(ひぜん)、豊後(ぶんご)の5つ。完全なのは、出雲風土記だけで、その他ものは、一部が欠けている。

※風土記の報告事項
• 好(よ)き字を用いて郡・郷の名を記す
• 銀・銅・染料・草・木・鳥・獣・虫などの物産
• 土地の肥沃さ
• 山・川・原・野などの地名の由来
• 古老に伝承されている旧聞・異事

※イワノオオカミ(伊和大神):播磨風土記にのみ出てくる大神で、アシハラノシコオ(大国主命:オオクニヌシノミコト)と混同して同じ神様として書かれている。

※アメノヒボコノミコト(天日槍命):風土記では漢人(アヤヒト)と呼んでいる。韓(からくに)より渡ってきた、渡来人と言われている。5世紀ごろ北九州から但馬もしくは瀬戸内に入った鉄の文化を持つ集団と考えられる。

参考文献:宍粟のあゆみ(先人たちの足跡)他




播磨国風土記写本     原文



神々の動きから生まれた地名

 主要な地名が神々の所作、言動から始まりましたが、鹿はシシと呼び、「シシアワ(鹿遇)」の音訳「しさわ」に好字2字を選んで、「宍禾(粟)」を宛てたと説明があります。
 この風土記の書かれたときには、宍禾(粟)郡(しさわのこおり)という地名が既に使われていました。風土記の書かれた内容には、神々の奇想天外の動きと発する言葉に首をかしげる事が少なからずあります。
 風土記の書かれた時代・奈良時代の初めには地名の成り立ちはすでに大昔の出来事で、昔話として国造りの神々の豪快でユーモラスな仕業として伝えられまとめられたのでしょう。


一枚の写真「最上山 上り口付近」

2019-10-19 11:10:53 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
最上山 上り口付近    宍粟市山崎町  
                         
             閲覧数954件(2009年10.22~2019.10.19)

最上稲荷山経王院への途中


最も新しいき山崎名所繒葉書(特製)の中から


現在の写真を撮ってみました。


山崎町北魚町の恵比寿神社と割烹旅館菊水の間の石段を上がり右に折れたところ