語り継がれる奥播磨の「地獄谷」とは 宍粟市山崎町
閲覧数4,781件(2011.3.13~2019.10.326)
かつて「地獄谷」と呼ばれ、語り継がれる界隈があった。この地獄谷という谷は、山中ではなく、以外にも街中にあったのである。しかし、それを知る人は、だんだんと少なくなっていく。
この地獄谷という所、一度足を踏み入れれば、心が弾み財布のひもは緩みっぱなしで帰りはいつも無一文。次に行けばまた同じ目に合うことがわかってはいても、その味が忘れられなく、また行きたくなる。日々汗水たらして働いて金を貯めては、三味線の音に誘われるかのように享楽の世界に溺れてしまう。それは結末こそ違え、浦島太郎さながらの天と地の世界が山崎の街中にそれも百年前に確かに存在していたのである。
地獄谷のこと
山崎町鴻の口(東和通り中央北)一帯は、かつて「地獄谷」と呼ばれた地域があった。古老に聞いた話によると明治末期ごろから馬力による運搬を生業にする客を相手に飲食店ができはじめ、その数が次第に増え大正に入ってから接客をするカフェや料理店が軒を連ねるようになったという。
鴻の口の道路の東側には喫茶店「プリーズ」料理屋「山口」、カフェの「ダイヤモンド」「オランダ」「ドンバー」「新天地」など。西側にはカフェの「新京」「つばめ」、料理店の「大坪」「共楽」などが店開きしていたそうだが、今はその面影はほとんど見当たらない。
ここ一帯を通行する人たちは、道路の両側に並ぶ広舗に誘い込まれ、懐がなくなるまで遊ばされるというのでいつしか「地獄谷」と巷で呼ばれるようなったそうな。
その頃、西隣りの伊沢町に※検番が開設され、六軒の※置屋が店を開いた。最盛期の芸妓衆の数は、およそ70名。舞妓になるためには、舞踊と鼓、芸妓は舞踊と三味線のテストがあり、パスするのは大変なことだったという。検番には「空書」がおいてあり芸妓の名簿が記載され、どこかに呼ばれて出て行くときは「花に行く」といい、「空書」に丸印が付けられた。花代は1時間で※1円。銚子1本と付き出し(あられ)など付いた料金だった。
※検番 :その土地の料亭・待合・茶屋の業者が集まってつくる組合事務所をいう。
※置屋 :料亭・待合・茶屋などの客の求めに応じて芸者を差し向ける
※明治の1円 :明治時代の1円の価値は、明治の始めと終わりで違うが、物価や給料で換算すると約2万円相当と考えられる。明治30年頃の公務員の初任給は月に8~9円であった。
同町「旭座「」で温習会が年1回は必ず開かれ芸者全員が踊りや芸居を披露した。芸居をするのは他地区ではあまり見られなかった。会場は大きな舞台、観客席は平場、芸裏、特別席があり、舞台の正面に向かいて左側に幅の狭い花道もあった。入口に木戸、そのすぐ近くに売店もあり関東煮きなどが売られていた。舞台は廻り舞台、奈落(ならく)も設けられていた。便所は非常口から出たところにあった。大正15年12月雪の降る日、「鍋かぶり和尚」という映画の上映中に火災が発生、全焼したという。
地元酒造生産の最盛期は大正時代
町内の造り酒屋(老松酒造)の生産量(醸造高)の記録によると、明治7年の生産高を1とすれば、明治末期は3.9倍、大正8年がピークで6.7倍、昭和初期から3.3~3.8倍が続く。
この大正8年の6.7倍の数値は、全国レベルの生産比が1.9倍であるので、いかに地元での酒の消費が多かったのかが数字で読み取れる。ゆえに大正中期は、地元酒造メーカーが大いに賑わった時代といえる。
このように地獄谷が活況を呈したのは大正中期で、塩田温泉(飾磨郡夢前町、現姫路市)の客も遊びに来ていたというから、郡外からの来客も多かったことが酒の生産量からうなづける。